プレス自主規制機関の妥協(Compromise on Press Regulator)

保守党、自民党、労働党が、ようやくプレスの独立自主規制機関の設置に合意した。新聞の中にはこの機関に加盟するかどうか態度を保留しているところもあるが、この妥協は、現在の状況下では最善のものと言えるのではないかと思われる。

経過

2012年11月の控訴院判事レヴィソン卿の報告書にさかのぼる。レヴィソン卿率いる公の調査委員会は、新聞紙らによる電話盗聴など個人の権利に対する侵害が明らかになり、プレスの行動などについて調査するため2011年7月に設けられた。

レヴィソンは、その報告書で、過去70年足らずの間に同様の調査が行われるのは今回で7回目だと指摘し、今回の勧告を採用し、次の調査が行われる必要をなくしてほしいと訴えた。

そこでは、独立の自主規制機関の設立が提案され、この機関は、法的根拠を持つものとすべきだと明記された。それ以来、主要三党間で交渉が進められてきていた。

キャメロン首相が、3月14日、突然、もうこれ以上議論しても、お互いの溝は埋められない、交渉を打ち切り、3月18日に採決すると記者会見した。そして3月15日にキャメロン案を発表。

キャメロン首相の突然の交渉打ち切りに野党労働党のミリバンド党首も、保守党と連立政権を構成する自民党のクレッグ副首相も驚いた。しかしミリバンドとクレッグは共同して案をまとめ、独自の案を3月15日に発表した。保守党内のキャメロン案への反対勢力(20人程度と伝えられた)とも連携し、3月18日には、キャメロン首相は敗れるという見込みが強まった。ところが、3党間の交渉は続いており、3月18日午前2時半ごろ、合意に達した。

争点

キャメロン首相とミリバンド党首・クレッグ副首相との考え方の違いは基本的にプレス側に立つか、被害者側に立つかということだった。キャメロンはプレス側の立場に立とうとした。プレスの自由を大義名分にしたが、プレスの影響力を恐れたためである。メージャー元首相も、23年前に同様の調査委員会を持ったが、その対応は不十分に終わった。現職の首相はこのような場面では極めて弱い立場に置かれるようだ。

一方、ミリバンド・クレッグは被害者側の立場に立とうとした。プレスの影響力は恐れたが、有名な被害者支援組織「ハックド・オフ」から安易な妥協をすれば徹底的な攻撃の書面を発表すると脅されたといわれる。

両者の立場の違いは、端的に、独立の自主規制機関を法に根拠を置くものとするかどうかに集約された。

レヴィソン報告書ではこの法について以下のように述べている

http://www.official-documents.gov.uk/document/hc1213/hc07/0779/0779.pdf.P18)。

この法律で行わないことは

  • プレスを規制する機関を設けない。規定された基準に合う自分たちの組織を設けるかどうかはプレス次第である。
  • その法律は、国会にも政府にも、いかなる規制(またはそれ以外の)機関に対しても、新聞がどのような記事であっても刊行することを妨げる権利を与えない。
  • これらの団体に、認証された自主規制機関に、その機関が認めた情報に関して訂正や謝罪の配置や目立ち方について新聞に指示する権限を持たせるよう求める場合以外、どのような記事であってもそれを刊行するよう命じるいかなる権利も与えない。

この法律で成し遂げることは

  • 政府にプレスの自由を守る法的な義務を初めて課す。
  • 新しい自主規制機関を承認する独立したプロセスを提供し、基本的な要件である独立と有効性があり、また今後とも継続してそうであることを国民に安心させる。(レヴィソンはOfcomを推奨)
  • 新しい機関を承認することにより、その行動基準と仲裁制度が、加入する者にもたらされる法の便益を正当化するのに十分であるかを認証する。これらは、データ保護、容認できる慣行・実務に関して様々な問題に対する裁判所の取り扱い方、さらに妥当な裁判外紛争処理が利用できる場合にはコストの結果に関連することもあり得る。

レヴィソン卿は、以上のような制限をつけながらも、法律で規定された独立の自主規制機関を求めたが、3党ともに、キャメロン案の勅許の方式でこの自主規制機関を設ける案で合意した。問題は、勅許をさらに法律で裏打ちするかどうかであった。キャメロンはそれに反対し、他の2党がそれは必要だと主張した。

勅許だけでは不十分

勅許とは、国王(女王)が出す、一種の手紙のようなもので、羊皮紙に書かれたものである。BBCや数々の大学、プロフェッショナルの機関、地方自治体など合計700余りがこの勅許を受けている。

この勅許を出す手続きは、枢密院で行われる。立憲君主制の下で、枢密院の役割は限られているが、その役割の一つは勅許に関したものである。枢密院の会議で、女王の正式な承認を得るが、それは既に大臣が議論して認めたものであり、勅許で自主規制機関を設けても、大臣が勅許の内容を変えようとすれば、それは枢密院で認められる可能性がある。

この点を反映して、最終的に、上院で審議されている別の法案の中にこの件の条項を付け加えることになった。

ここで重要なのは、この条項で、勅許はその中で述べられた要求事項に合致しなければ変更できないとしたことだ。この条項には、特にどの勅許とも明確にはしていないが、そのような要求事項をつけた勅許は一つしかないことから、どの勅許を指しているかは明らかである。そしてこの勅許の中には、上下議会のそれぞれ3分の2の賛成がなければ修正できないと述べる。

かなり回りくどい方法であるが、その結果、キャメロンは、これは法律に根拠を置くものではないと主張でき、一方、ミリバンドとクレッグは、これは法律に根拠を置くものだと主張できる。役人の入れ知恵かと思われる。

自主規制機関の内容

この自主規制機関は、新しい行動基準を持ち、その役員の任命も運営資金の獲得も自ら行う。苦情処理を行い、無料の被害者との仲裁機関を持ち、プレスが誤ったことをしたと判断した場合には最大限100万ポンド(1億4500万円)の罰金を命じることができる。この自主規制機関に参加しないプレスが裁判で誤りが認められると、懲罰的損害賠償を命じられる。なお、この機関を認証する独立した組織が設けられる。

ヒューン元大臣の今後(What’s Next for Huhne)

クリス・ヒューン前エネルギー相は、3月11日、ロンドンの南西部にあるワンズワース刑務所に収監された。10年前にスピード違反の点数を自分の代わりに元妻に被ってもらった司法妨害罪で、8か月の刑期を宣告されたためである。

ヒューンは、自民党所属の下院議員だった。2007年12月の自民党党首選挙で現党首ニック・クレッグにわずかな票差で敗れたが、実は、12月はクリスマス前の郵便ラッシュのシーズンで、郵便投票の中に遅配があり、そのため、この党首選で勘定に入らなかった票があった。後にこの遅配票を計算に入れると、ヒューンがクレッグを上回っていたという話が明らかになったが、ヒューンは正式な結果を受け入れた。英国の有権者には負けっぷりが悪い人を嫌う傾向がある。

ヒューンは、2010年総選挙後の保守党・自民党の連立政権でエネルギー・気候変動相となった。しかし、自分のアドバイザーとの不倫がタブロイド紙に発表されそうになったため、妻と別れた。

ヒューンは、トニー・ブレア労働党政権当時のロビン・クック外相と同じことをしたのである。クックは妻と別れて不倫の相手と一緒になる道を選んだが、外相の地位を維持した。ヒューンはそうすることで、恐らく、自分の政治家としてのダメージを最小限にする意図があったのではないかと思われる。つまり、有権者に人気のないクレッグ党首・副首相が退任した暁には、自分が党首となれる芽を残しておきたかったのではないか。

クック元外相の前例もあり、マスコミはヒューンの問題に冷静に対応した。もちろん、この問題が発覚した時には、高級紙も含めて大きく取り上げられたが、すぐに鎮静化し、ヒューンは何もなかったかのように大臣としての仕事を継続した。それでもヒューンが一緒になった女性アドバイザーにはかつて他の女性と市民婚をしていた過去があり、それに関する記事がしばらく続いた。

ヒューンは、ジャーナリストからビジネスに転じた後、自民党の欧州議会議員、そして2005年に下院議員となった人物であり、有能な政治家として知られていた。大臣としても公務員がその有能ぶりを認めていたという。

ヒューンにとって誤算だったのは、ヒューンに突然見捨てられ、大打撃を受けた元妻が復讐を企てたことである。この点でヒューンは、クックの例を十分に頭に入れていなかったといえるだろう。クックの場合、その元妻で医師のマーガレット・クックが、クックの人格を否定するような内容の本を書き、出版した。この本は評判になり、テレビ、ラジオ、新聞などマスコミにも数多く出演した。これはクックにかなり大きな打撃を与えた。

この点で、ヒューンは、その元妻ヴィッキー・プライスを低く見過ぎていたといえる。過去に英国政府のトップエコノミストであり、局長級のポストを辞職した後、民間会社に移った元妻が、自らの評判を大きく傷つけるかもしれないような危険なことをするはずがない、と考えていたように思われる。

実際には、ヴィッキー・プライスは、怒りのあまり、復讐の念に燃え、自分への害の可能性も深く顧みず、危険な道を走り始めてしまった。一旦、10年前に何が起きたかの話が報道され始めると、あとは、物事は自らの手を離れ、勝手に走り始めてしまった。10年前にヒューンのスピード違反の点数を自分が被ったのは、夫に強制されたためだ、と古い法律を使って主張したが、それは認められず、自分も司法妨害罪で8か月の刑期を受け、ロンドンの北部の女性刑務所、ホロウェイ刑務所に送られた。

ヒューンは、ワンズワース刑務所での刑務囚としての生活を始めた。サン紙(2013年3月13日)が、ヒューンの生活に触れ、あまりうまく行っていないことを示唆した。刑務官が、所内放送で、下院で議長のよく使う言葉を使って「尊敬すべきワンズワース北の紳士、朝食を事務所まで取りに来るように、静粛に、静粛に(オーダー、オーダー)」と言ったという。また、ヒューンに「金があるのだってね」と付きまとう他の刑務囚もおり、ヒューンは他の刑務囚から遠ざけるために隔離棟に送られたという。これらの話は、ヒューンの愛人が否定している。

話の真偽はともかく、かつて同じく司法妨害罪で刑務所に送られた、上院議員のジェフリー・アーチャーはすぐに他の刑務囚と仲良くなり、刑務囚にサインをしてあげる代わりに何かと便益を受けたという。ヒューンは、恐らく2か月程度の服役の後、電子タグをつけられた上で出所すると思われるが、それまでの辛抱である。

ヒューンの今後については、様々な憶測がある。ヒューンはかなり多くの不動産を持っているが、取りざたされているのは、ジャーナリズムもしくはシティーへの復帰だ。ヒューンはかつて格付け会社のフィッチの副会長を務めたこともあり、その能力がシティーで評価されるのではないかという。

ヒューンは、高転びに転んだといえるが(裁判官は、スピード違反の点数を他の人に被ってもらったことが明らかになっていれば、高い地位に就くことさえできなかっただろうと言うが)、社会でその能力を生かして働く機会を与えられる方が社会全体としては望ましいと思われる。