英国の議員の行動の監視制度

英国の下院議員には、公職を担う議員として守るべきルールがある。ある保守党下院議員が、企業の依頼を受けて顧問料を受け取り、大臣や政府関係機関に働きかけていた疑いが表面化し、下院議員の行動を監視するコミッショナー(The Parliamentary Commissioner for Standards)が調査した。そして、その事実があったとし、登院停止30日間の勧告をした。その後、下院の行動基準委員会(The Committee on Standards )がその勧告を審査する。そしてその勧告を受け入れる、もしくはその勧告を変更するなどの決定をする。このケースの場合、登院停止30日間の勧告通りに下院本会議に諮られた。最終的には下院が判断するからである。ところが、ジョンソン首相の指示を受けて、保守党が過半数を占める下院がその通り承認しなかったために、大きな騒動となった。その上、当の保守党下院議員は、保守党支持のテレグラフ紙のインタビューを受けて、自分は何も悪いことをしていない、また同じことをすると居直ったのである。ところが、ジョンソン首相は、下院の採決の翌日には考えを変え、その結果、当の下院議員は議員を辞職した。

なお、下院が登院停止10日以上と決定した場合、若しくは他の特定された条件を満たした場合、下院議員のリコール請願が行われる。この請願に選挙区の有権者の10%以上が署名すると、リコール選挙が実施される。対象となった下院議員は再び立候補することも可能だが、上記のケースの場合、そのような不名誉を避けたかったことが背景にあるようだ。

この騒動で、下院議員の利害登録や議員活動に注目が集まった。その結果、保守党の幹部で、ジョンソン政権の下院院内総務と枢密院議長を兼ねるジェイコブ・リース=モグが、現在、コミッショナーに調べられている。自分の所有する会社から計600万ポンド(約9億円)ほどのお金を低利で借りたにもかかわらず、それを登録しなかった疑いのためである。

一方、下院議員で法廷弁護士のジェフリー・コックスが、弁護士として多額の報酬を受け取り、コロナパンデミックの最中に、西インド諸島の政府の仕事で西インド諸島に飛び、また、議会の議員事務所からビデオ会議に参加していたなどで批判されていた問題では、コミッショナーが調査をしないことが明らかになった。コミッショナーは、それぞれの事案が調査に値するかどうかを独立して判断して調査をするかどうかを決定する。そして調査中の事案は、コミッショナーのウェブサイトで発表される

それでも下院議員の行動基準や大臣や国家公務員らの行動基準には、まだあいまいな点が多く、さらなる検討が必要である。

首相としての仕事がおっくうになってきたようなジョンソン首相

2021年11月22日、英国産業連盟(CBI、日本の経団連のような団体)の総会でスピーチしたジョンソン首相は、話が脱線し、演説原稿のどこを読んでいるかわからなくなってしまった。産業界のリーダーたちは、コロナパンデミック後の産業政策、サプライチェーン問題、技能者不足対策、クリーンエネルギー問題など多くの課題の政府の対応の話が聞けると思っていたと思われる。また、首相にとっては、これらの課題を直接リーダーたちに語りかけられる良いチャンスだったが、スピーチの時間を埋めるためだったのだろう、話がそれてしまって、折角のチャンスを無駄にしてしまった。この後、取材していた記者から「大丈夫ですか?」と聞かれる羽目となった。

ジョンソン首相が国政に真剣に取り組んでいるのか疑問を抱かせるエピソードである。ジョンソン首相は、2週間前には、保守党下院議員の行動基準ルール違反問題で大失敗した。ジョンソン首相は、問題の議員を救済し、さらに行動基準ルールの体制の見直しを図ろうとし、保守党議員に強引に指示して投票させ、自分の思う通りの結果を得たが、世論や保守党内の反発を受けて、一日で方針を転換する羽目に陥った。それまでも政府の政策の度重なるUターンが批判されていたが、この問題を契機に保守党関係の疑惑(スリーズと言われるが)が次々とメディアで報道されるに至り、保守党の中でもジョンソン首相の施政能力と信頼度に大きな疑問が生まれてきている。

世論調査でも、ジョンソン首相の自ら招いた問題で、保守党と野党第一党の労働党の支持率が拮抗している。前回総選挙では、ジョンソン首相の魅力が、保守党が多くの労働党議席を奪った原動力となったと分析されている。これらの議席は、よく「赤い壁(Red Wall)」と呼ばれるが、これらの議席から選出された保守党の議員は、ジョンソンが約束をしたことを守らない上、しかもジョンソン自身の魅力が減退する中で、次の総選挙がどうなるか心配している。一方、保守党のベテラン下院議員らは、ジョンソンの行動基準ルールをめぐる失敗で、自分たちの議員以外の収入への影響を心配している。

前回総選挙は2019年12月だった。5年の任期があることから次期総選挙はまだ先である。しかし、英国のEU離脱の悪影響が、身近に感じられるようになったり、北アイルランド問題の処理をめぐるEUとの対立が円満に収まらない事態となったりした場合には、ジョンソン首相を交代させる動きが出てくる可能性がある。現在は、まだ、メイ前首相の際にあったような、党首不信任の手紙が提出される動きにはなっていないと言われる。ただし、ジョンソン首相には、何が何でも首相として継続してやっていくという気迫に欠ける。ジョンソン首相には健康問題があるように思われるが、自ら退陣するという事態があるかもしれない。

公職に関するノーラン7原則とジョンソン首相

公職にある者が心がけておかなければならない原則として、「公職にあるものの行動基準に関する委員会」の初代会長ノーランが掲げた7原則がある。それらは以下の通り

  1. 無私無欲
  2. 誠実さ
  3. 客観性
  4. 説明責任
  5. オープン性
  6. 正直
  7. リーダーシップ

ジョンソン首相が、30日間の登院停止処分を勧告された保守党下院議員を救い、それとともに、行動基準を逸脱、もしくは逸脱した可能性のある議員の調査を実施し、その処分を決定するシステム全体を改革しようとした。そして、下院のその勧告に関する投票で、保守党所属下院議員に指示し、以上の2つの投票で勝利を収めた。ところが、これを英国政治の大きな危機だとみなしたメディアや識者が強く反発したため、ジョンソン政権はその翌日Uターンすることとなる。そのUターンの前、上記委員会の現会長のエバンス卿(元MI5のトップ)が政府の倫理基準は、国民の信頼の基盤であるとして、強く批判し、ノーラン7原則を改めて強調した。

そして、これまであった、Good Chap theory という、みんなが自制してうまくいくように運営できるという前提は当てにできないとし、コンプライアンスのシステムが必要で、その文化を養成していく必要があると強調したのである。

ジョンソン首相の狙いは、下院議員の行動基準コミッショナーのキャスリン・ストーンの排除にあったと見られている。ジョンソン首相は、既にストーンに3度調べられている。ストーンが公職にあるものとして自分の仕事をきちんと行っているところが煙たがられたようだ。しかも首相の住居の改修費用の問題やホリデーなど、さらに調べられる材料がいくつもある。ジョンソン首相のトップアドバイザーだったドミニク・カニングスは、ジョンソンは、自分への非合法な献金が暴かれるのを恐れているのだと言う。ストーンに脅迫などの攻撃が激しくなったとして、警察のセキュリティが強化されたと伝えられるが、ストーンは現在の職を離れるつもりはないと明言している。

今回の件で、公職への任命を含み、公職の行動基準への関心が大きく高まったことから、ジョンソン首相の行動は、やぶ蛇になったと言えよう。

ロビーイングのルールを破った下院議員への制裁が二転三転

ロビーイングのルールを破った下院議員への制裁が、ジョンソン首相の指示で二転三転し、ジョンソン首相に大きなダメージとなった。

2021年11月3日、英国の下院は、ロビーイングのルールを破って、大臣や官僚など関係者に陳情していた保守党下院議員への制裁(30日間の登院停止)勧告を覆した。そしてこの勧告を出した制度そのものの見直しを始めることを賛成多数で決めたのである。このベテラン保守党下院議員オーウェン・パターソンは元閣僚で、1年に112,000ポンド(1736万円:£1=155円)ものコンサルタント料を受け取り、合わせて50万ポンド(7,750万円)もの報酬を2つの会社から受け取っていたと言われる。

この勧告は、下院の規範委員会の決定に基づくものだ。この委員会は、下院議員7名と一般人7名で構成される。その下院議員の内訳は、保守党4名、労働党2名、SNP1名である。この委員会は、下院の議会規範コミッショナーの報告に基づき判断する。そして委員会の判断は、通常、下院がそのまま承認する。特に今回は、委員会が、パターソンの件は、おカネをもらって大臣や当局に働きかけた「悪質なケースだ」とし、全員一致で制裁に賛成した。

ところが、保守党党首であるジョンソン首相は、規範委員会の勧告に反対するよう保守党下院議員に指示した。保守党は2019年下院総選挙で他の政党議席を80議席上回る勝利を収め、首相の指示通りに投票すれば、下院の投票でその通りの結果を得られる。投票結果は、規範委員会の勧告は承認されず、また、同時に、下院は、議員の規範問題を扱う新しい仕組みを作ることに賛成した。この投票には、野党の労働党、SNP、自民党などがこぞって反対票を投じた上、保守党議員が13名反対票を投じた。また、投票に出席しなかった保守党議員も多かった。政府の役職についていたが投票しなかった保守党下院議員は直ちにその役職をクビになった。一方、野党は、新しい委員会を作ることには反対で協力しないと表明した。

この結果は、1晩で覆ることになった。ビジネス相が、報道機関を回って、規範コミッショナーは辞職を考えるべきだと示唆したが、朝刊は、この下院投票の結果を第一面トップで取り上げて批判したものが多かった。「恥を知らない保守党下院議員が汚職ルールを引き破る」といったセンセーショナルで猛烈な反発に、保守党は突然方針を転換することとなる。パターソンの件は改めて採決するとし、規範の新体制は、野党と相談しながら進めるとした。また、政府の役職をクビになった保守党下院議員には、新しい役職を与えた。行き場を失ったパターソンは、下院議員を辞職した。

このUターンは、ジョンソン政権に大きな痛手となったように思われる。下院での投票直後、BBCの政治部長が規範委員会の勧告に反対した保守党議員は、そのことをこれからずっと言われ続けるだろうと発言したが、保守党議員のジョンソン首相への信頼は大きく揺らぐだろう。

この問題は、ジョンソンの2019年12月のカリブ海ホリデーに関連しているのではないかと見る向きもある。パターソン問題を扱った議会規範コミッショナーがジョンソンのホリデーのお金の出所を詮索し、ジョンソンがルールを破ったとの結論を出し、それを規範委員会に送った。規範委員会がさらに調査を進め、ジョンソンの報告には誤りがなかったとしたが、ジョンソンのコミッショナーへの対応を批判した。ジョンソンは、パターソンの件をこの規範コミッショナーへの復讐に使ったのではないかというのである。この規範コミッショナーに調べられて制裁を科されたり、調査を受けていたりする議員はかなりおり、このコミッショナーを嫌っている下院議員はかなりいると思われるが、ジョンソン首相の復讐の話はさもありなんと思わせるところにジョンソンの問題がある。

英国の予算発表

リシ・スナック(Rishi Sunak)財相が、今後3年間の予算発表を2021年10月27日に行った。この予算発表の前には、財政緊縮に向かいたい財相と、多くの政策課題に対応するために予算を拡大させたかったジョンソン首相との軋轢が報道された。

英国では、コロナパンデミック対策で、休業補償などを含め既に多くの財政支出を行っており、その上、国民保健サービス(NHS)の医療体制など多くの公共サービスを強化する必要があった。2010年から続く保守党政権で緊縮財政をとってきたため、各省庁で公共サービスの問題が山積していたのである。

その結果、この予算では、大幅な公共支出の増加と増税となった。経済全体に対する公共支出の割合は1979年のサッチャー保守党政権の誕生の頃の高いレベルとなり、また、税は、第二次世界大戦後の復興期の1950年初め以降最高レベルとなった。そして保守党は、2019年の総選挙で掲げた保守党のマニフェストの公約を2つ破ることとなる。破ったのは、①「国民保険税(National Insurance)を上げない」を破って上げたこと、②「年金は3つの数字(物価上昇率、賃金上昇率、2.5%)のうちの最も高い数字に基づいて上げる」としていたが、これを今回は停止し、物価上昇率の3.1%とした(後述)。

一方、供給不足、人手不足、燃料高騰などのため、インフレが起きていることから、国民生活対策として、①最低賃金を来年4月から時給8.91ポンドから9.5ポンド(1,470円:£1=155円)にする、②ユニバーサルクレジットと呼ばれる生活扶助を受けている人たちは、働くとその賃金に対して受ける扶助金が一定の割合で差し引かれるが、その割合を減額した。一見、国民の世帯当たりの所得がかなり増加するようだが、2022年には4%余りのインフレが予測されており、国民生活がパンデミック前より悪い状態は、2023年後半まで続き、その後も2020年代半ばまで平均1.3%程度の増加にとどまると見られている。

スナック財相は、ジョンソン後の保守党党首(そして首相)の座を狙っている。保守党の中の小さな政府・減税支持勢力を味方につけるため、次期総選挙(5年任期で、2024年までに行う必要がある)の前に減税する意向を示した。その思惑どおりになるかどうか注目される。

[国民年金のトリプルロック(Triple Rock]について]

これは、2010年の総選挙で政権を担った保守党と自民党の連立政権で始まった。翌年の国民年金は、3つの数字、①9月の物価上昇率(CPI)、②7月の平均賃金上昇率、そして③最低保証の2.5%のうち最も高い数字を使って計算することとなっている。2022年4月からの年金計算は今回だけ②を除き、①と③だけを使い、3.1%の上昇率とした。なお、7月の平均賃金上昇率は8.3%だったが、パンデミックの影響で、歪んだ数字と判断されたからである。なお、これまでの年金上昇率は以下のとおり。

適用日

物価上昇率

平均賃金上昇率

最低保証

採用数字

6 April 2012

5.2%

2.7%

2.5%

物価上昇率

6 April 2013

2.2%

1.5%

2.5%

最低保証

6 April 2014

2.7%

1.2%

2.5%

物価上昇率

6 April 2015

1.2%

0.6%

2.5%

最低保証

6 April 2016

-0.1%

2.9%

2.5%

賃金上昇率

6 April 2017

1%

2.4%

2.5%

最低保証

6 April 2018

3%

2.3%

2.5%

物価上昇率

6 April 2019

2.4%

2.6%

2.5%

賃金上昇率

6 April 2020

1.7%

3.9%

2.5%

賃金上昇率

6 April 2021

0.5%

-1%

2.5%

最低保証

6 April 2022

3.1%

n/a

2.5%

物価上昇率

北アイルランドのプロトコールをめぐるジョンソン政権の2019年の決断

英国はEUと離脱協定を結び、2020年1月31日にEUを離脱した。その離脱協定の中の北アイルランドのプロトコール(貿易上の手続き)をめぐって、英国とEUが対立している。英国は、北アイルランドの現状にふさわしくないとして、このプロトコールの抜本的な見直しを求めているが、EUにはその意思はなく、その代わりに現在のプロトコールをできるだけ柔軟に適用することで対応しようとしているEU側は、貿易上の手続きをしなければならないモノを大幅に減らす案を出してきた。英国側は、それでは十分ではないとの立場だ。

この中、2019年12月の総選挙時のジョンソン政権の考え方が改めて注目を浴びている。ジョンソン首相のトップアドバイザーだったドミニク・カミングスによると、ジョンソン政権は、英国のEUからの離脱を最優先し、北アイルランドの問題を含め、離脱協定の中で、ジョンソン政権の気にいらないものは、離脱後、改めて蒸し返すつもりだったというのである。そのため、不十分なものだとわかっていたが、北アイルランド問題の合意ができた時点で、ジョンソン首相が非常によい合意だと国民に訴えて英国の離脱を進めたというのである。

カミングスは、労働党のコービン党首(当時)が総選挙に勝って首相になるのを防ぎ、機運が大きくなりつつあったEU離脱をめぐる第2の国民投票につながるような芽を摘む必要があったとし、とにかくEUとの離脱協定をまとめる必要があった。そしてその判断は、北アイルランドの問題でさらに揉めるより、1万倍の意義があったとする。なお、カミングスによると、ジョンソン首相は、2020年11月まで北アイルランドのプロトコールの意味を分かっていなかったという。

カミングスは、2016年の国民投票で離脱賛成多数の結果をもたらした人物であり、何がなんでも英国のEU離脱を成し遂げるつもりだったのは明らかだ。もし2019年末の時点で、北アイルランドの問題のために離脱協定をまとめることができていなければ、総選挙に臨む国民に「この離脱協定で離脱する」と主張することができず、総選挙の結果が変わっていた可能性がある。そうなれば、英国のEU離脱が宙に浮く可能性もあった。カミングスらの戦略で、保守党は、総選挙で大勝利を収め、労働党には、歴史的な敗北を喫した。カミングスの判断はかなりの成功を収めたが、北アイルランドのプロトコール再交渉問題は大きな危険性を秘めている。

英国のEU離脱交渉の失敗から学べる事

英国のEU離脱交渉でEU側の交渉責任者である「チーフネゴシエーター」だったミシェル・バルニエの「私の秘密のブレクジット日記」が出版された。この日記の書評をもとに、英国側の交渉の問題点を見てみたい。なお、この書評は、英国のブレア首相のチーフオブスタッフ(首席補佐官)だったジョナサン・パウルによるものである。パウルは、イギリスの北アイルランドの平和をもたらした1998年のベルファスト(グッドフライデー)合意の舞台裏で交渉を取り仕切った人物で、北アイルランド議会が2007年に再開するまで北アイルランド問題に尽力した人物である。「北アイルランドの平和プロセスのチーフネゴシエーター」とも表現される。それ以降も世界中の紛争の調停者として活動している。

EU側は、終始一貫して、英国がEUにメンバーとして残ることを希望していた。交渉がどうなろうとも、EUの主力メンバーである英国が離脱することは大きな打撃である。パウルは、EU側が英国のEU離脱交渉で勝ち、英国は、欠陥のある離脱協定と不利な将来関係を背負ったとするが、より大きな観点では、この交渉では勝利者はいないとする。

パウルは、EU側がこの離脱交渉で成功した理由と英国側の失敗した理由を以下のように5つ挙げる。

1.EU側は、プロフェッショナルできちんと準備をしたが、英国側はそうではなかった。バルニエは、最初から交渉の着地点を想定し、交渉が始まる前に自由貿易協定の完全な法律文書を用意していた。

2.EU側27か国が結束した。バルニエを通さず、英国は個別の国と話をしようとしたが、バルニエと話すように言われた。

3.EU側は、この交渉で求めているものを知っており、それを貫き通した。一方、英国側は独りよがりな交渉に終始した。そのため、EU側が主導権を握り、議題を決め、思うように交渉を進めたという。

4.英国側のジョンソン首相は、EU側が動揺することを狙ってEU側を怒らせようとしたが、EU側は冷静に受け止めた。

5.EU側は、「最終期限」を効果的に使った。ジョンソン首相の前任者メイ首相は、その目的がはっきりしないまま、リスボン条約50条で定められた2年間の期間制限を開始させてしまった。

2016年に英国で行われた、EUから離脱するかどうかの国民投票で、英国民は離脱を選択した。なお、国民投票は、英国ではほとんど行われない。英国は、議会主権(日本は国民主権)であり、議会が決めることになっているからである。また、英国の下院(上院は公選ではない)は完全小選挙区制であり、一つの政党が比較的多数を占めやすいことから、総選挙で代表者が選ばれ、下院議員が総体として決定すれば足りるという考え方があった。そのため、これまで行われた全国的な国民投票は、1975年のEEC国民投票、2011年の選挙制度改革国民投票、そして2016年のEU離脱国民投票の3回である。この3番目の国民投票は、当時の保守党のキャメロン首相が、党内のEU離脱派を抑えるために実施したが、キャメロンは、EU離脱賛成票が多数を占めることになるとは考えていなかった。そしてキャメロンは首相を辞任する。準備が整っていなかった上、EU側を見くびっていたことが、交渉をより難しくしたと言える。

英国政治の「赤い壁」と「青い壁」

英国政治で「赤い壁(Red Wall)」「青い壁(Blue Wall)」という言葉がよく使われている。赤は労働党、青は保守党のイメージカラーで、それに関連した選挙で主に使われている。なお、イングランドの第3党である自民党は、黄色である。

下院の選挙は、単純小選挙区制であり、それぞれの選挙区で最多の得票をした人が1人だけ下院議員となる。英国の地図にそれぞれの選挙区でどの政党が勝ったかをそれぞれのシンボルカラーで埋めていくと、それぞれの政党の強い地域が壁のように見えるということから「赤い壁」や「青い壁」と表現する人が出てきた。「赤い壁」の地域は、英国本土のグレートブリテン島の中央部ミッドランドやイングランド北部などの地域で、「青い壁」は、イングランド南部などである。いずれもそれぞれの政党が伝統的に強いと考えられている地域である。

2019年の総選挙では、それまで労働党の強いと思われていた「赤い壁」地域で、保守党が大きく議席を稼いだ。これらの地域の多くは、2016年のEUを離脱するかどうかの国民投票で、離脱派が多数を占めた地域であったために、英国のEU離脱を求める労働者階級の人たちが投票先を変えたと見られた。一方、「青い壁」は、保守党の強いと考えられている地域で、この多くでEU在留派が多数を占めた。

ただし、「赤い壁」と「青い壁」はジャーナリズムでよく使われる表現であるが、その実態は異なるという分析がなされている。「赤い壁」でいうと、その地域の有権者は、言われるほど固定された考え方を持っているわけではなく、かなり進歩的な考え方を持つ人が多いという。

「青い壁」は、保守党の圧倒的に強いと思われていた選挙区の2021年の補欠選挙で、自民党が勝ったために、特に注目されてきた見方である。保守党政権に不満を持つ有権者が、労働党には投票したくないが、自民党なら投票できる、もしくは労働党の支持者が保守党に議席を与えないようにと考えて、自民党に投票するなどの投票行動の結果である。このような例が次期総選挙でかなりあるかもしれないと保守党の現職下院議員たちに心配する声がある。ブレクジットの結果が悪く、保守党政権の失政が重なると「青い壁」地域で、保守党が議席を失う可能性を心配しているのである。

いずれにしても、政治を分析する際に固定的な見方をすると、現実を見誤るかもしれないということは言えると思う。

北アイルランドのプロトコールの問題

英国はEUを2020年1月31日に離脱した。その離脱協定で最も大きな問題の一つとなっているのが、北アイルランドのプロトコールと呼ばれる手続きである。この手続きは、多くの努力を経て達成された北アイルランドの平和を維持していくため、英国とEUが特別に設けたものである。

北アイルランドの平和は、1998年のベルファスト(グッドフライデー)合意で基本的に達成されたが、英国とEUの両者は離脱交渉の最初からこの合意を尊重することとしていた。この合意は、ユニオニスト(英国との関係を、英国の他の地域と同じレベルで維持していくことを求める立場)と、ナショナリスト(アイルランド共和国との統一を求める立場)の間のバランスを保ち、北アイルランドの将来を自ら判断していくことで成り立っている。この合意でユニオニストとナショナリストの代表者たちはノーベル平和賞を受賞した。

なお、英国の北アイルランドと南のアイルランド共和国は、同じアイルランド島にある。国境はあるが、税関の施設などはない。国境を通り過ぎるのは、日本の高速道路で異なる県に入ったことを告げる看板を見るようなものである。

英国がEUのメンバーだった時には、アイルランド共和国がメンバーのEU域内の単一市場でモノの流通が自由であった。しかし、英国がEUを離脱すれば、EUのメンバーであるアイルランド共和国と、メンバーでない英国との間に通関する場所を設けることが必要となる。しかし、そのような施設を設けると、過激派の標的になりかねない、また、セクト間の抗争を招く可能性があるとして、英国(北アイルランド)とアイルランド共和国の陸上の国境には、何も構築物を設けないことにし、北アイルランドとアイルランド共和国の間のモノのやり取りは、北アイルランドがEUの商品規格に従うことで、チェックなしで行うこととした。その代わりに、英国の本土のグレートブリテン島とアイルランド島の間のアイルランド海に事実上通関上の線を引くこととし、モノの移動は、北アイルランドの港で事務的な手続きを行うこととしたのである。

すなわち、北アイルランドは、英国の一部でありながら、アイルランド共和国とのモノの移動の面で、EUの単一市場のような扱いを受けるようになったのである。当初、この新しい仕組みを歓迎する声が北アイルランドのユニオニストの中にもあった。北アイルランドが英国とEUの「いいとこ取り」できるかもしれないとの思惑があったからである。ところが、北アイルランドと英国のグレートブリテン島とのモノのやりとりには一定の事務的なルールがある。手続きには時間がかかり、到着の遅れ、非EU国である英国からの食品のチェック、ソーセージなどの冷蔵食品の輸入制限の問題をはじめ、英国本土と同じ扱いを求めてきたユニオニストの人たちには大きな問題となった。2021年3月末から4月初めの北アイルランド各地の暴動は、この問題と大きな関係がある。さらに2021年9月には、ユニオニストの4政党は、このプロトコールを廃止するよう共同声明で要求した。なお、プロトコールには、4年ごとにこのプロトコールの是非について判断する条項があり、北アイルランド議会がそれを判断することになっているが、それはまだ先のことである。

ジョンソン首相の前のメイ首相は、北アイルランドの通関の問題で新たな仕組みを英国とEUが合意できるまで、英国全体をEUとの関税同盟に残すという案(バックストップ)をEU側と同意した。メイ首相はその案を下院に提出したが3度否決された。ジョンソン首相は、その案の代わりにプロトコールをEU側と合意したのである。

ただし、ジョンソン首相が、北アイルランドをどれほど真剣に考えていたか疑問が残る。英国政府は、今や、モノの移動がよりスムーズに進むよう、このプロトコールにまつわるほとんどのチェックをやめたいと考えている。また、欧州委員会と欧州裁判所のプロトコール遵守の監視もやめさせたいとする。英国政府は、プロトコールの影響を過小評価していたため現在の問題が起きたと主張するが、これらのプロトコールの問題は、離脱協定が結ばれる前から分かっていたようだとBBCが報道した。すなわち、問題があるのは十分に分かっていたが、とりあえずEUを離脱し、その後で問題を蒸し返して変えさせるつもりだったというのである。

一方、EU側は、できるだけ柔軟に対応したいとする考えはあるものの、このプロトコールそのものを廃止したり、変更したりする意図はない。

この北アイルランドのプロトコールの問題は、英国のアメリカとの貿易交渉にも悪影響を与えている。ジョンソン首相は、2021年9月の国際連合総会に出席した際、英国とアメリカの自由貿易協定の足掛かりをつかもうと考えていた。ジョンソン首相は、英国のEU離脱キャンペーンのリーダーだったが、EUから離脱すれば、EUの枷を離れて自由に世界各国と貿易協定が結べると訴え、その代表格としてアメリカとの自由貿易協定を挙げていたのである。しかし、バイデン大統領には、そのような意思はなかった。逆に北アイルランドのプロトコールの問題をジョンソン首相にきちんと対応するよう要請した

バイデン首相は、アイルランド系アメリカ人である。アメリカにはアイルランド系の人が多い。アメリカの統計局が2019年に行ったコミュニティ調査によると、自分をアイルランド系と考えるアメリカ人は、人口の9.7%、3200万人に上る。特に民主党とアイルランドとの関係の強さはよく知られている。1998年のベルファスト合意でも、アメリカのクリントン大統領が、IRAを含めて当事者たちに相当な圧力をかけて、合意に至るよう力を尽くした。通常、自由貿易協定の締結にはかなり時間がかかるが、北アイルランドのプロトコールの問題も含め、英国とアメリカとの自由貿易協定が結ばれるような状態となるまでには、まだ長い時間がかかりそうだ。

北アイルランドのプロトコールに関連して、10月にEU側の提案が出されるようだが、ユニオニスト側が強硬になっているため、ジョンソン政権には前途多難な秋となりそうである。

分権政府が維持できない可能性が出てきた北アイルランド

紆余曲折を経、ユニオニスト側とナショナリスト側のコンセンサスで共同統治をする考えを中心にして北アイルランドの分権政府が生まれた。しかし、それが維持できない可能性が出てきた。たとえそうなっても、選挙を実施するなど、英国の中央政府が直接統治する仕組みが設けられているが、共同統治によって平和を回復してきた北アイルランドには大きなマイナスである。その大きな原因は、まず、英国がEUを離脱した、いわゆるブレクジットから発生した問題であり、次に、現在の最大政党でユニオニストの民主統一党(DUP)の支持率の大幅な低下である。

北アイルランドの最大政党であるDUPの内紛が表面化し、2021年4月にアーリン・フォスター首席大臣が党首を辞任した。その後任のエドウィン・プーツは、波乱の党首選挙を経て5月に選ばれたが、わずか3週間で党首を辞任、そしてその後の6月の党首選で、下院議員ジェフリー・ドナルドソンのみが党首選に立候補し、党首に選ばれた。この過程で、DUPはさらに支持を失うこととなった。もともとフォスターの辞任は、自らが求めたものではない。ブレクジット交渉を経て、英国とEUが合意した、北アイルランドの貿易問題に関するプロトコールと呼ばれる手続きが、大きな問題となったためだ。フォスターが、そのプロトコールの影響の判断を誤ったために英国のEU離脱後、北アイルランドが英国本土とのモノのやり取りで税関手続きを経なければならないこととなったと糾弾され、党所属議会議員たちから不信任を突きつけられたためであった。ユニオニストは、もともと英国本土とのつながりを重視しており、北アイルランドと英国本土との間でそのような手続きをしなければならないことに反対している。

DUPの内紛は、その支持率の低下を心配し、来年5月には行わねばならないことになっている北アイルランド議会の次期選挙を心配した議員たちが引き起こしたものと言えるが、党内の混乱で以下のようにさらに支持率の低下を招いている。

調査実施日 DUP ᵁ シンフェイン ᴺ UUP ᵁ SDLP ᴺ 同盟党 ᴼ TUV ᵁ 緑の党 ᴼ その他
2021年8月20-23日 13% 25% 16% 13% 13% 14% 2% 2%
2021年5月 16% 25% 14% 12% 16% 11% 2% 2%
2021年1月 19% 24% 12% 13% 18% 10% 2% 1%
2020年10月 23% 24% 12% 13% 16% 6% 3% 2%
2017年3月2日選挙結果 28.10% 27.90% 12.90% 11.90% 9.10% 2.60% 2.30% 5.40%

ユニオニスト(U):DUP民主統一党、UUPアルスター統一党、TUV伝統的ユニオニストの声党
ナショナリスト(N): シンフェイン党、SDLP社会民主労働党
なお、UUPは、5月に元軍人のダグ・ビーティーが新党首となり、新鮮な印象を与えている。TUVは、現党首のジム・アリスターがDUPの欧州議会議員だった時の2007年にDUPとシンフェイン党が共同統治の合意をしたため、DUPを離れて設立した政党である。

北アイルランドの次回選挙が、2022年5月の予定より早く行われる可能性があるものの、その選挙ではナショナリストのシンフェイン党が最大政党となるのは確実と見られている。その上、DUPはユニオニスト側でも最大政党になれず、UUPの後塵を拝する可能性がある。

北アイルランドでは下院議員と北アイルランド議会議員を兼任することはできないため、ドナルドソンは、早い機会に下院議員を辞め、北アイルランド議会議員に就任して、プーツの指名した現在の首席大臣に入れ替わって自分が首席大臣になるつもりと伝えられていた。首席大臣だったフォスターが首席大臣退任時に議員を辞職したため、その議席が空席になっているが、現在の政治情勢を踏まえ、直ちに北アイルランド議会議員になるつもりはないようだ。

むしろ、ドナルドソンは、北アイルランドのプロトコールが根本的に変わらなければ、選挙、分権政府から手を引くと発言している。また、ユニオニストの支持者たちが騒擾を起こす可能性に触れた。支持を失いつつあるDUPの流れを止め、逆に支持を回復しようとしているようだ。

北アイルランドは、その特殊な過去の歴史を反映して、ユニオニストとナショナリストの共同統治である。そしてその分権政府のトップは、同等の権限を持つ首席大臣と副首席大臣である。最大政党から首席大臣、そしてその政党との所属するユニオニストもしくはナショナリストのグループとは異なるグループの最大議席を獲得した政党が副首席大臣を推薦することになっている。もし、いずれかが欠ければ、もう1人もその職を退くことになっており、北アイルランドの分権政府は機能しないことになっている。そのため、現在、DUPから出している首席大臣を辞任させ、後任を指名しなければ、それで分権政府は倒れる(この点で、中央政府は新たな仕組みを導入しようとしている)。また、次回選挙で、たとえDUPがユニオニスト側の最大政党となったとしても、副首席大臣の地位を占める北アイルランド議会議員を指名しなければ、首席大臣も任命できない。

DUPには、首席大臣と副首席大臣の権限が同等であっても、ナショナリストのシンフェインに首席大臣の地位を奪われるのは屈辱だという見方がある。DUPは、もし万一プロトコールが変えられれば、それを成し遂げたのは自分たちだと言うだろうが、もしそれがかなわなければ、分権政府ではなく、英国中央政府の直轄統治の方が良いという立場をとる可能性がある。そうなれば、分権政府はかなり長期間停止され、北アイルランドの平和が脅かされる可能性がある。