シェークスピアと現代政治(Shakespeare and Modern Politics)

ストラトフォード・アポン・エイボンのロイヤル・シェークスピア・カンパニーの劇場でハムレットを見た。ハムレットは、’To be or not to be. That is the question’という言葉で有名だ。主人公のハムレットを演じたジョナサン・スリンガーの流暢さ、そして声のトーンの確さに感銘した。

ハムレットには、日本の一般的な考え方とは異なるものがある。例えば、叔父がハムレットの父を密かに毒殺し、ハムレットの母とあまり日をおかず結婚した。この劇では、ハムレットの叔父への復讐の念が中心となるが、ハムレットは、叔父が母と結婚したことに強い嫌悪感を抱く。そしてその結婚を近親婚だと忌み嫌うのである。

日本では、例えば、亡くなった姉の代わりに妹が姉の夫と結婚するといったようなことがよくあるが、英国では、かつてこれには倫理上問題があると考えられていた。20世紀に入ってから法律でこのような結婚も公式に認められたが、今でもそれを嫌う風潮は残っているようだ。また、ハムレットの中でも触れていることだが、自殺した者の埋葬の考え方など日本との違いがある。

それでも、人間としての葛藤は、16世紀から17世紀初めのシェークスピアの時代と現代、そして英国と日本の差を越えて共通のものがあるように思われる。

つまり、当たり前のことだが、英国の政治と日本の政治を見る場合にも、「違い」と「共通性」があるという事実に常に留意しておかねばならない。

なお、シェークスピア劇での言葉は、英国の政治では極めて大切である。英国での日常生活、新聞、本などでもそれらの言葉は常に出てくる。英国の下院での討論でも、言葉を聞いて、そのシェークスピア劇での場面が思い浮かぶほどでなければ、当意即妙の返事をすることは難しい。トップ政治家にとっては、シェークスピア劇の理解はかなり重要だといえる。

知り合いの小学校の先生に、何歳からシェークスピアを教えるのかと聞くと、6・7歳児のクラスからだという。内容は簡略化されたものだが、マクベスから始まり、ロメオとジュリエットという具合に進んでいくそうだ。英国人の多くは、その教養のレベルにかかわらず、シェークスピアから生まれた多くの言葉を知っている。

ストラトフォード・アポン・エイボンの、シェークスピアの長女がその夫と住んだホールズ・クロフトという建物に、フォルスタッフという人物の紹介がある。この人物は、シェークスピアの戯曲の中で登場する。言葉に巧みで、降りかかる問題から逃れる能力があったと記述されているが、ロンドン市長のボリス・ジョンソンに似ていると感じた。

ジョンソンは、オックスフォード大学で古典を学んだ。時に失言するが、その言葉を操る能力は非常に優れており、当意即妙な対応をする。それが多くの人たちへのアピールとなっている。それでもジョンソンは、その面での自分の力を過信しすぎる点があるように感じられるが(例えば、http://blogs.reuters.com/uknews/2008/04/25/mayoral-hopefuls-take-the-shakespeare-test/)。いずれにしても特に現在の政治では、言葉が大切で、シェークスピアを知ることは政治家にとって大きな力となる。

サッチャーを正面から批判した側近(Blockbuster Criticism to Thatcher)

権力の座にある人に率直に思ったことの言える人はそう多くはないだろう。そういう人が側近には必要だろうが、苦い薬は誰もが嫌う。

ブレア元首相の側近で広報局長だったアラスター・キャンベルは、ブレアに面とむかって思ったことを言ったという話は有名だ。キャンベルが仕事がきつすぎるので、やめさせてほしいとたびたび申し出たにもかかわらず、ブレアはその辞任をなかなか認めようとしなかった。キャンベルの能力と、その率直なサポートが必要だったからだ。

しかし、あのサッチャー(1979年から1990年首相)に向かって、首相府の政策の責任者が率直に思ったことを告げていたことが明らかになった。

この人物は、ジョン・ホスキンスというビジネスマンで、政治家でも公務員でもなかったが、野党時代のサッチャー保守党の政策形成に大きな貢献をした人物である。

それは1981年8月のことだった。サッチャーが夏季休暇に出かけるときのレッドボックス(政府の書類に入った赤いブリーフケース)に、ホスキンスとそれ以外の二人の連名のメモが入れられていた。サッチャーは、その数週間後、「こんなことを首相に書いた人はいない」とホスキンスに言ったといわれる。

この頃は、サッチャーの評価が保守党の内外で非常に低かったころだ。特にジェフリー・ハウ財相の1981年予算には非常に大きな批判が巻き起こり、364人の著名な経済学者・エコノミストが政府の経済政策の変更を求めた。

ホスキンスは、サッチャーにマネジメント能力が欠けていると指摘し、特にそのマン・マネジメントを厳しく批判した。やり方が誤っている。みんなのやる気を削いでいる。このままでは、サッチャーの再選はない。しかも痛烈なのは、サッチャーの日程を一杯にしているのは、戦略的なことを考えることを避けているためだとも言っている。

ホスキンスは、その翌年の春にそのポストを去った。英国を何とかして立て直したいと思い、それに専心していた裕福なビジネスマンであり、比較的自由な立場であったといえる。それでも、このような批判をしたということは、その時の政治状況があったとはいえ、かなりの勇気が必要だったろう。サッチャーは、ホスキンスのメモのアドバイスを受け入れた点があったと言われるが、このような厳しい指摘があったことは、サッチャーの心の中に残ったのではないかと思われる。

意図せぬ効果(Unintended Effects)

人の行動が意図したこととはかなり異なった効果を生むことがあるが、それは、政治でも同じである。

例えば、4月17日のサッチャーの葬儀で涙を流したジョージ・オズボーン財相のことである。テレビで放映されたその映像を見て、オズボーンに反対する人たちは、「嘘泣き」であるとか、涙を公の場で流すのは恥ずかしいことだと言って攻撃する人がいた(参照 http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-22197119)。このうちの多くは、労働党などの反保守党やオズボーン財相の緊縮財政に反対する立場の人で、その狙いはオズボーンを傷つけることだと思われるが、それとは逆の効果があったようだ。

この攻撃のために、それ自体がニュース性を持ち、広く報道された。さらに、男性が公の場で涙を流すことの是非が議論となり、さらに大きく報道された。

オズボーンの涙の場面は、明らかに胸が詰まった様子が見え、本当に涙を流したということが伝わってくるものであった。恐らく、オズボーン自身は、これを少なからず恥ずかしく思ったほどではないかと思われる。

その結果、オズボーンの非人間的な従来のイメージとは異なり、人間オズボーンのイメージがかなり広く知られることとなったように思われる。つまり、オズボーンの「非人間性」を攻撃しようとした人たちは、オズボーンの「人間性」を大きく広めるのに力を貸したこととなる。

一方、トニー・ブレア元首相のある雑誌でのアドバイスは、エド・ミリバンド労働党党首に向けて書かれたものであるが、それはミリバンドと労働党に良かれと考えて書かれたものであると思われる(参照http://kikugawa.co.uk/?p=1567)。ところが、それが出るや否や、ブレアがミリバンドを攻撃したとマスコミが報道した。

この背景にあると思われるのは、ミリバンドの具体的な政策が出てくるのに時間がかかっている状況に多くのマスコミがかなり不満を持っていたことがある。その結果、ミリバンドの政策面での問題を追及したコメントが多く出された。

その結果、ミリバンドは、政策面で遅れており、首相となる準備ができていないという結論を出したものも少なくない(参照 4月21日の夜のラジオ番組での討論、http://www.bbc.co.uk/programmes/b01s1czm)。ただし、次の選挙はまだ2年以上先だ。

その結果かどうか、先週あたりから、世論調査で、労働党の保守党に対する支持率のリードが若干減ってきている。

ブレアと、ミリバンドは先週の水曜日に会って話をしたと伝えられるが、ブレアのように「スピン」に力を入れた、経験のある政治家でも、その行動の効果については、深く読んでいなかったようだ。効果的なスピンドクターなら、もう少し慎重に行動しただろうと思われる。この点、自民党のパディ・アッシュダウン元党首は、クレッグの脚を引っ張ることがない。

政治の世界では、意図に反する結果が出ることは多い。その予想外の結果をなるべく少なくするような努力が常に要求されていると言える。

歴史の評価(The Verdict of Posterity)

マーガレット・サッチャー元首相の葬儀が国葬に準じた形で行われ、セント・ポールズ大聖堂にはエリザベス女王以下2300人が集まった。

それで対比的に思い出されるのが、労働党の首相(1945-1951年)であったクレメント・アトリーである。キャメロン首相が4月10日の下院でのスピーチの中で、優れた業績を残した首相の一人として名を挙げたアトリーは、第二次世界大戦後の首相として、戦後の復興をリードし、その政権ではNHSを創設した(http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-22096469)。

アトリーは、二十世紀で最も優れた首相として挙げられることが多い。下院議員を退いた後、伯爵に任ぜられたが、1967年に亡くなった時の葬儀は、極めてつつましかった。ロンドンのテンプル教会で行われたが、出席者は、当時のウィルソン労働党首相夫妻を含んでいたものの、150人にも満たず、外で参列したのは30人ほどだったと言われる。しかも式は20分もかからなかったそうだ(http://static.guim.co.uk/sys-images/Guardian/Pix/pictures/2013/4/12/1365777944820/Attlee-funeral-001.jpg)。それでもアトリーの遺灰がウェストミンスター寺院に収められた時には、2000人が出席した。(http://www.britishpathe.com/video/earl-attlees-remains-interred-aka-service-of-memor)

アトリーが亡くなったのは、首相の地位を離れてから16年後のことであったが、その時点では、ガーディアン紙は、アトリーは偉大な首相ではなかったと書いた(http://static.guim.co.uk/sys-images/Guardian/Pix/pictures/2013/4/12/1365777984207/Attlee-obit-001.jpg)。近年では、アトリーは歴史家や政治学者たちから高く評価されている(http://www.ipsos-mori.com/researchpublications/researcharchive/661/Rating-British-Prime-Ministers.aspxhttp://www.woodnewtonassociates.co.uk/analysis/Papers/Rating%20PostWar%20British%20Prime%20Ministers.pdf)。アトリーの真価を見るには半世紀ほどの時間が必要だったようだ。

一方、サッチャーの評価は、1990年に政権を去って、四半世紀近いが、サッチャー政権時代に心に傷を受けた人たちは未だに癒えているとは言えず、非常に批判的な意見もかなりある。恐らくサッチャーの場合も、あと四半世紀もたてば、その歴史的な評価はより落ち着いたものとなるのではないだろうか。つまり、歴史の評価には、半世紀ぐらいの時間を見ておいた方が確かなように思われる。

現在の日本にそのような評価に耐えられるだけのビジョンと覚悟を持つ政治家がどの程度いるだろうか?

オズボーン財相の涙(Osborne’s Tear)

英国の首相を1979年から1990年まで11年半務めたマーガレット・サッチャー元首相の葬式がとり行われた。

その棺は、一晩、国会内の礼拝堂に安置された後、午前10時過ぎに国会を出発した。 9時半ごろ少し雨が降ったが、すぐに止んだ。そのころには沿道の人は多くはなかった。

官庁街のホワイトホールを通り、首相官邸のあるダウニング街10番地を通る。沿道に多くの人が集まったのは、その直前だったが、見守る人たちの中から静かな拍手が広がった。騎兵が先導し、しばらく時間を置いて白バイに先導された霊柩車と随行の車が通りすぎた。

集まった人の多くは、官庁街であったことを反映し、国家公務員であったのだろう。首相官邸や、その横の内閣府の建物に入っていく人を多く見かけた。

ストランドからセント・ポールズ大聖堂へ向かう棺の行進は、多くの人々が道の両側を埋める中、音楽バンドと軍人に先導され、粛々と進んだ。

観光客がこの行進を見るためにかなり集まったようで、テムズ川沿いを通るロンドン観光のツアーバスにはほとんど人が乗っていなかった。横道に整列した近衛兵の後ろから行進を見学することとなったが、横道も人で一杯だった。

反サッチャーの人と親サッチャーの人の言い合いがあったが、反サッチャーの人は、行進が到着するまでに立ち去った。ほとんどの人たちは、そのやり取りを眺めていただけで特に反応しなかった。

その後、午後には晴れて、いい天気となった。

この日、最も印象に残ったのは、ジョージ・オズボーン財相である。BBCの午後1時のニュースでも放映されたが、セント・ポールズ大聖堂内の式典で、キャメロン首相の後ろに座っていた。そこで、テレビのレポーターも、オズボーン財相の涙に触れた。よく見ると、確かに頬に涙が流れた跡がある。後にそれを自ら拭った。

オズボーン財相は、人情味がない冷たい人物のようなイメージがあるが、そのイメージを覆す光景だった。

昨日IMFが英国の経済成長率予測を引き下げ、しかも今日の発表で失業者の数が増えるなどいいニュースに乏しいが、オズボーン財相は、既定の方針を変えるつもりはない。自分の立場をサッチャー元首相の首相一期目の立場と重ね合わせて、感じた面があったのかもしれない。

なお、オズボーン財相は、セント・ポールズ大聖堂に関係のある、私立のセント・ポールズ・スクールの卒業生である。

 

ブレアのアドバイス(Blair’s Advice to Miliband)

トニー・ブレア元労働党首相がエド・ミリバンド労働党党首へのアドバイスを左よりの雑誌ニュー・ステイツマンに寄稿した。(http://www.newstatesman.com/politics/2013/04/exclusive-blairs-warning-miliband

ブレアは、ミリバンドを名指ししなかったものの、その意図は極めて明らかで、現在の労働党に必要なリーダーシップについて、自分の考えを明らかにしたものである。要は、労働党が安直に左寄りに動くのではなく、政治の考え方で真中の位置を保ちながら、はっきりと政策を打ち出していくべきだと言うのである。具体的な問題として挙げられたのは、緊縮財政策、福祉、移民そして欧州である。

ブレアは、また、マーガレット・サッチャー死去の後のインタヴューで、決断をすれば、賛成する人と反対する人を生み出すと言った(http://www.bbc.co.uk/programmes/p017gnb8)が、ミリバンドにそのような決断を促している。決断をせずに、現キャメロン政権の施策に反対しているだけでは、責任のある政党とはなりえない、と言うのである。

ブレアのアドバイスには、ブレアの側近で、後にブラウン政権でも重要な役割を果たしたピーター・マンデルソン、ブレア内閣で閣僚を務めたピーター・リードとデイビッド・ブランケットもブレアの危惧を反映した発言をしている(http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-22143354)。

ブレアは、1994年に労働党党首になり、1997年、2001年そして2005年の3度の総選挙に勝利した。この経験からのアドバイスにはかなりの重みがある。しかしながら、ミリバンドには一つ極めて根本的な問題があるように思われる。

それは、ミリバンドには、昨年秋の党大会で打ち出した「ワンネイション・レイバー」という基本的な枠組みはあるものの、それ以上の理念がないように思われる点だ。

ブレア自身、同じような問題に面したといえる。ブレアも1997年の総選挙前、自分が何を政権について成し遂げたいか分かっていなかったように思われる。この総選挙で「教育、教育、教育」と訴えたが、ブレアが自分の成し遂げたいことを見つけたのは、首相となってかなり後のことであり、2001年総選挙以降を自分の「1期目」と考えていたと言われる。

それに比べて、理念の面では、ミリバンドはブレアの1997年以前の状況からそう遅れているようには思えない。それは、キャメロン首相も、野党時代同じだった。ブレアは、「第三の道」を訴えた。キャメロンは選挙がかなり近くなって「ビッグ・ソサエティ」という考え方を打ち出した。いずれも、理念として中途半端であった。そして今やミリバンドは「ワンネイション・レイバー」の中身で苦しんでいる。

ただし、ブレアが労働党選挙戦略で取ったのは、焦点を、もともと中流階級の保守党投票者だが生活の質に関心の高い「ウスター女性」と呼ばれる層と、もともと労働者階級の労働党投票者だったが保守党に投票している「モンデオ男性」と呼ばれる層に定めた。そしてそれまでの左派寄りの考え方から政治の考え方の中央に移動させ、それは大きな成功をもたらせた。

ミリバンドはどうか?ミリバンドの戦略は、「35%戦略」と言われる。これは、2010年の総選挙で獲得した29%の得票にさらに自民党から6%を上積みすれば、次期総選挙に勝てると言うのである。つまり、次期総選挙では、自民党の得票率が低下し、その低下した部分のかなりが労働党に回るのは確実で、その結果、労働党が保守党と自民党にわずかな差で敗れた選挙区での勝利が見込まれ、それにプラスの議席獲得ができれば、過半数が獲得できるという計算に基づく。2005年の総選挙で労働党は35%の得票率だったが、それでも政権を余裕を持って維持した。

現在労働党は、世論調査で10ポイント程度保守党を継続的に上回っており、2015年に予定される総選挙では、労働党が勝つ可能性が高まっている。しかしながら、1997年にブレアがそれまでの保守党政権を破った時には、世論調査では、20ポイント以上の差をつけていたことから考えると、10ポイントのリードはそう大きくない。しかも、ブレアは、最後の最後まで気を抜かなかった。

そのブレアの目から見ると、ミリバンドの戦略は極めて弱く映ると思われる。つまり、事実上、現状維持の戦略であるからだ。ただし、1997年の景気が上向いていた時代と現在の経済停滞の状況とでは大きく異なる。ミリバンドが強い確信や理念があるのならいざ知らず、もう少し方向を見極めたいという考えも背景にあるように思われる。

ブレアのアドバイスはかなりプラグマティックなものではあるが、それでも理念抜きには一歩を踏み出しにくい。ブレアのアドバイスに対してミリバンドは、過去の労働党政権の移民問題などの失敗を反省し、これからの方向性を計画していると発言した(http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-22104974)。2010年9月に党首となり、既に2年半党首を務めてきたミリバンドの政治的リーダーシップの苦しみを物語っていると思われるが、同時に、現在の英国の政治的リーダーシップの貧困さを物語る一つの事例であろう。

マニフェストの検証?(Vetting Manifesto?)

2011年12月まで国家公務員のトップである内閣書記官長(Cabinet Secretary)を務めたオードンネル卿が、選挙の前にマニフェストを独立機関が検証をしてはどうかと言いだした(サンデータイムズ紙2013年4月7日)。

オードンネル卿のアイデアでは、選挙マニフェストがどの程度実現可能か、それを公的に検証するべきだというのである。

このアイデアは、実現可能性がないと思われる。

まず、政党がそのようなアイデアに同意する可能性は極めて少ないだろうと思われる。政党のマニフェストが、選挙前に事細かく検証され、もし、実際的でないとか、実現が困難と言われれば、その政党への信頼性が揺るぐ。

次に、そのような検証にどのような意味があるのだろうか?

2010年の総選挙の前、保守党の効率化アドバイザーであったピーター・ガーション卿が、予定されているものにつけ加えて、120億ポンド(1兆8千億円)の財政カ削減が可能だと言った。

ガーション卿は、民間会社の重役から公務員となり、政府商務局のチーフ・エグゼクティブも務めた人物である。2004年から5年にかけては、ガーション・レビューと呼ばれる政府全体の活動を見直し、歳出と効率化について勧告をした。

保守党のキャメロン党首(当時)が、ガーション卿が可能だと言っているのでできるという立場を取ったのに対し、ファイナンシャルタイムズ紙がガーション卿にインタヴューした。公務員の余剰人員解雇なしで公務員給与から10億ポンドから20億ポンド(1500億円から3000億円)のお金が捻出できると言ったことに対し、マンチェスター大学の専門家に聞いたところ、それは無理だという。そのため、ガーション卿の効率化に大きな疑問が投げかけられた。それでもキャメロンが首相になった後、ガーション効率化案を大幅に変更せざるを得なかったが、結果的に必要な財政削減を成し遂げた。

もしその「独立機関」がこの財政削減を検証していれば、否定的な結論を出していた可能性が高いと思われるが、それがその「独立機関」の意味なのであろうか?特に野党の場合には、実際に政権に就いて見なければ何が可能か不可能か分かりづらい点がある。現在でも総選挙の前に、首相の許可を得たうえで、野党が公務員トップに接触する制度があるが、それでお互いの能力を十分にはかることは難しい。

さらに、誰がそのような検証をするのだろうか。

キャメロン政権では、独立して経済や財政の予測を出す機関、予算責任局(OBR)を設けたが、この機関の予測がどこまで信頼できるかには疑問がある。経済成長、インフレ、税収などの予測がかなり外れている。その上、例えば、第四世代移動通信の周波数オークションによる歳入見通しでは、OBRは、昨年12月、財務省の予測した35億ポンド(5300億円)を承認したが、その当時から多く見積もりすぎていると見られていた。実際に財務省に入った金額は、それより3分の1も低い23億4千万ポンド(3500億円)であった。

かなり狭い分野に限定されたこのような独立機関の予測や判断に疑問が残るのに、マニフェストのような広い分野にわたるものを「独立機関」がどの程度有効に判断できるか疑問である。

さらに2010年の保守党のマニフェストのNHSの記述のように、専門家でもその真意が理解できていなかった場合もある(参照http://kikugawa.co.uk/?p=405)。この「独立機関」がマニフェストの記述をすべて理解できると想定できるものだろうか?

最も根本的な問題は、政治家と公務員の能力をどの程度だと判断するかである。非常に優れた政治家、もしくは公務員が担当する場合と、そうでない人が担当する場合では、成否だけではなく、達成度も費用も大きく異なる可能性がある。これを「独立機関」が勘定に入れて判断することは極めて難しい。時には特定の政治家と特定の公務員の組み合わせが予想以上の効果を生む場合もあるだろうし、その逆もあり得る。

それに付け加えて、この「独立機関」が誤った報告をすればどうなるのだろうか?もしかすると選挙の結果を左右することにもなりかねない。

これらのことを考えると、公的な「独立機関」がマニフェストの問題に踏み込むよりも、それは、民間のシンクタンクやマスコミに任せておいた方が賢明なように思われる。

サッチャーの評価(British People’s View on Thatcher)

マーガレット・サッチャーは、1979年5月から1990年11月まで英国の首相を務めた。20世紀の首相として最も在任期間が長かったが、その評価は人によって大きく異なる。

サッチャーが2013年4月8日亡くなった後行われた世論調査では、サッチャーの行ったことは英国によかったという人は50%で、悪かったという人は34%いる。そのうち非常に良かったという人は25%だが、非常に悪かったという人は20%いる。今でもサッチャーを強く嫌っている人はかなりの割合に上る(参照http://www.guardian.co.uk/politics/2013/apr/08/britain-divided-margaret-thatcher-record-poll)。

サッチャーの業績を特に評価するのはイングランドの55%だが、スコットランドではそれが23%、そしてウェールズでは34%に減る。スコットランドとウェールズ、それに付け加えて北イングランドでは、サッチャーの国営現業事業の民営化、そして不採算事業の閉鎖、例えば炭鉱の廃坑などで多くの人が職を失った。その恨みが今でも残っている。

サッチャーの首相としての評価は、1990年11月の首相辞任時の調査にはっきりと現れている。サッチャーは英国に良かったという人が多かった反面、個人的には悪かったという人が多い。首相辞任時、サッチャーの政府は英国によかったという人は52%、悪かったという人は40%だが、個人的に良かったかどうかという問いには、44%が良かったと答え、悪かったという人は46%にも上った(参照http://www.ipsos-mori.com/researchpublications/researcharchive/poll.aspx?oItemId=223#q2a)。

サッチャーを嫌う人がかなり多く、その政策はさらに嫌われていた。首相辞任時、サッチャーを嫌いな人は60%、サッチャーの政策を嫌いな人は71%に上った(参照http://www.ipsos-mori.com/researchpublications/researcharchive/poll.aspx?oItemId=2398&view=wide)。

一方、サッチャーが有能な首相だったと考える人は、かなり多い。2011年6月に行われた世論調査では、過去30年間で最も有能な首相は、サッチャー36%、ブレア27%、ブラウン11%、キャメロン10%、そしてメージャー7%だった(http://www.ipsos-mori.com/researchpublications/researcharchive/2819/Most-capablemost-likeable-Prime-Minister.aspx)。

首相としてのサッチャーを評価したのは、中流階級だけではなく、労働者階級でもそうだった。「不満の冬」をもたらした労働党政権に1979年の総選挙で見切りをつけてサッチャーの保守党に投票した労働者階級の人々は、その後も、1983年、1987年の総選挙でも保守党に投票した。それは、労働者階級の中でも上の層である熟練労働者階級に端的に表れている。(下表参照)

総選挙 1974Oct 1979 1983 1987 1992
熟練労働者 保守党 26 41 40 40 39
労働党 49 41 32 36 40
自民党 20 15 26 22 17
非熟練労働者 保守党 22 34 33 30 31
労働党 57 49 41 48 49
自民党 16 13 24 20 16

いずれも%。参照 http://www.ipsos-mori.com/researchpublications/researcharchive/poll.aspx?oItemId=101&view=wide

サッチャーは、多くの政治家が直面する問題を提起していると言える。国のために、反対が多くても、本当に必要だと信じたことを行うか、どうかである。もちろん当該の政治家に「本当に必要だと信ずるもの」があるかどうかは別の問題であるけれども。

サッチャーの盛衰(Thatcher’s Rise and Fall)

マーガレット・サッチャー元首相(1925年10月13日-2013年4月8日)が87歳で亡くなった。

政治は、理屈だけで動くものではない。サッチャーの場合、その非常に強い信念と勇気で幸運を呼び込み、1979年から1990年の11年間もの長い間政権を担当し、英国の歴史に残る首相となった。

サッチャーの信念は、1979年の総選挙のマニフェストの前文に色濃く出ている。

FOR ME, THE HEART OF POLITICS is not political theory, it is people and how they want to live their lives.

No one who has lived in this country during the last five years can fail to be aware of how the balance of our society has been increasingly tilted in favour of the State at the expense of individual freedom.

中略

Together with the threat to freedom there has been a feeling of helplessness, that we are a once great nation that has somehow fallen behind and that it is too late now to turn things round.

I don’t accept that. 1 believe we not only can, we must. This manifesto points the way.

It contains no magic formula or lavish promises. It is not a recipe for an easy or a perfect life. But it sets out a broad framework for the recovery of our country, based not on dogma, but On reason, on common sense, above all on the liberty of the people under the law.

The things we have in common as a nation far outnumber those that set us apart.

It is in that spirit that I commend to you this manifesto.

Margaret Thatcher

ここでは、政治の中心にあるのは人だ、かつて偉大な国であった英国が今や後れをとっている、この事態を逆転させねばならない、国を立ち直らせるのは、常識と、とりわけ法の下での人々の自由だ、そういうサッチャーの思いが出ている。

サッチャーは、1975年に保守党の党首となったが、もし1978年から9年にかけての「不満の冬」がなかったら、サッチャーは、1979年の総選挙には勝っていなかっただろう。そして保守党の下院議員に不評だったサッチャーの党首としての役割は終わっていただろう。

1982年のフォークランド紛争では、多くの反対を押し切って、アルゼンチンと対決することを決め、軍艦と兵を送った。アルゼンチンのミサイルが英国の軍艦に多数命中したが、不発のものが多かった。もし不発のものが少なかったならば、英国は大損害を負い、撤退を余儀なくされていただろうといわれる。そして次の総選挙での勝利はなく、失業者を大きく増やし、戦争に負けた首相として、三流首相と見なされていただろう。

1984年にはIRA(アイルランド革命軍)が、サッチャーが保守党大会のために泊まっていたホテルに時限爆弾を仕掛けた。党首演説の当日午前3時前にそれが爆発し、サッチャーは危うく難を逃れたが、5人が死亡し、31人が負傷した。

サッチャーの信念と勇気が幸運を呼び、その長期政権につながり、ついには自分の目的としたことをやり遂げた。

しかし、サッチャーのいつまでも政権を担当したいという貪欲さが「人頭税」の失敗を招き、政権の重要な政治家を離反させ、サッチャーの失墜を招いた。その上、欧州懐疑派の中心的存在となりメージャー保守党政権の運営に大きな障害をもたらした。

サッチャーの盛衰から学ぶことは多い。

福祉政策の欠陥?(Flows in Benefits System?)

17人の子供を5人の女性に生ませ、そのうち11人の子供と妻並びに愛人と住んでいた男ミック・フィルポットの問題で英国の社会保障について議論が起きている。フィルポットは、自分が働かずに、妻と愛人に働かせ、社会保障手当を受けて生活していた。

フィルポットは、すべての社会保障手当と妻と愛人の給与を自分の銀行口座に払い込ませ、管理していたという。受けていた社会保障手当などの中身は明らかになっていないが、タイムズ紙の試算(2013年4月4日)では以下のようになる。

児童手当:最年長の子供に1週間20.30ポンド、それ以外は1週間13.40ポンドで11人の合計年額は8,023.60ポンド(116万円)。
ワーキング・タックス・クレジット呼ばれる子供を抱えた働く人への補助金:妻には6人の子供がおり、年に20,560ポンドまで、愛人には5人の子供があり、年17,870ポンドまでで1年に合計が最高38,430ポンド(557万円)。
住居手当:3ベッドルームの公共住宅で1週間に推定150ポンドで、年に7,800ポンド(113万円)。
・妻と愛人の給与。

税金などを勘定に入れると、タイムズ紙は、この収入額は、年収10万ポンド(1,450万円)の人に匹敵するという。他にも社会保障給付が6万ポンド(870万円)で、それに妻と愛人の給与が加わるというものもある(デーリーメール4月3日)が、いずれもかなり金額を誇張しているように思われる。しかしながら、フィルポットがかなりの額の社会保障給付を得ていたのは間違いない。

議論は、これを特殊なケースと見るか、社会保障の仕組みに問題があると見るかである。

保守党は、キャメロン首相、オズボーン財相が社会保障の仕組みに問題があると見ている。ダンカン=スミス雇用年金相は昨年秋に、児童手当は子供二人までに限るべきだと発言したが、連立政権を組む自民党がそれに反対した。このフィルポットの例を見て、それに賛成する保守党の右の議員がかなりいる。

例えば、キャメロン首相と党首選挙を争ったデービッド・デイビス元影の内相は、人々が家庭を益々大きくしたいほど児童手当をよくし過ぎるのは危険だという。フィルポットのような例はそう多くはないが、実際に起きるので、何らかの対応をしなければならないという。

一方、労働党や自民党は、これは特殊なケースと見るべきで、社会保障の仕組みと結び付けて考えるのは妥当ではないという立場だ。

フィルポットの事件の概略は以下のようである。

昨年5月、フィルポットとその妻、そして親友がダービーにある自分たちの住む公共住宅に火をつけた。これは、昨年2月、11人の子供のうち5人の子供を連れて家を出た愛人を放火の罪に陥れ、さらに自分の6人の子供を助けてヒーローになろうとし、また、住んでいた家は3ベッドだったので、地方自治体により広い家を用意させようとしたものである。この事件は、家を出た5人の子供の親権とその住居についての審問のある数時間前に起きた。

火が予想外に早く回り、2階にいた子供たち6人は有毒ガスで死亡した。裁判の結果、3人は過失致死で有罪となり、フィルポットは終身刑、妻と親友は禁固17年の刑期を受けた。保釈が許されるのは、フィルポットは最低15年後、妻と親友は刑期の半分を過ぎてからである。裁判所では、フィルポットに対して、その妹が「死ね、ミック、死ね」と叫んだと報道された。

フィルポットは、愛人が5人の子供を連れて家を出たため、月に千ポンド(14万5千円)余り収入が減ったことを恨みに思っていたとも伝えられる。

イングランドでは、この4月から福祉手当の上限が設けられた。これは、フィルポットのような社会保障給付に頼っている人たちが、一般の勤労世帯より多くの収入を得ることを防ぐために設けられたもので、上限は2万6千ポンド(377万円)である。

この背景には、社会保障給付が年々増えており、緊縮財政の中でそれに歯止めをかけることがある。もし、児童手当が最初の子供二人に限られれば、年間33億ポンド(5千億円)の節約となるという。また、子供10人の世帯は90に留まるそうだが、子供5人の世帯は、8万5千、そして子供4人の世帯は25万近いそうだ(タイムズ紙2013年4月5日)。

児童手当対象の子供を2人に限るという政策を支持する政治家が少なからずいるという背景には、英国では子供の数が急激に増えており、都市部の学校では教室が足りず、空いているオフィスなどを使う場合が出ているということがある。

英国では、福祉手当依存体質のある人々を強く批判する勤労者層が増えている。そのため、この体質を変えようとする試みにはかなり大きな支持が集まる傾向にある。保守党は、2015年に予定される総選挙のマニフェストにこの「児童手当は最初の2人だけ」を入れる考えだと言われるが、労働党と自民党はそれに強く反対しているため、それが選挙の大きな争点の一つとなる可能性がある。