トニー・ブレア元首相へ父の与えた影響(Tony Blair’s father)

トニー・ブレア元首相の成功は、11月16日に89歳で亡くなった父親レオの成功と挫折に拠っている。ブレアは、亡くなった父のことを「父として持ち、光栄に思う」と言った。今でも1997年にブレアが労働党党首として総選挙に勝利した直後の勝利集会で、ブレアが父からお祝の声をかけられたシーンが目に浮かぶ。

ブレアの父レオは、グラスゴーの貧しい造船工の夫婦に育てられた。芸人だった、生まれの親が子供を育てられないので、その夫婦に預けたのだ。貧しい家庭で育ったブレアが共産主義に関心を持ったのは当然の成り行きで、青年共産主義者の会の書記まで務めたほどだった。ところが、第二次世界大戦が始まり、出征したことが、レオの人生を大きく変える。レオはその能力を認められ、後に大尉となり、臨時少佐にまで出世した。

英国の軍では、いわゆるオフィサーとそれ以下では待遇が大きく違う。特に食事の場では、まったく違う扱いを受ける。オフィサーとなったレオは、その特権を満喫し、考え方が大きく異なることとなった。退役後、レオは、エディンバラ大学で法律を学び、その後、オーストラリアの大学で、そして英国に帰国後、名門大学のデュラム大学で法律を教えた。法廷弁護士としても活躍し、その結果、保守党に人脈を築いた。そして、地域の保守党支部の支部長となり、下院議員となることを目指していた。保守党中央の有力者が、何人もレオの家を訪れたそうだ。

ところが、40歳で突然、脳卒中で倒れた。そのため、長い療養生活を余儀なくされ、政治家への道はあきらめることとなる。

ブレアは、レオの成功で中流階級の家庭で育ち、中等教育は、スコットランドのイートン校と呼ばれる私立学校で受けた。その恩恵を受けたブレアは、オックスフォード大学へ進学し、中流階級の有権者から大きな支持を受けて、1997年の総選挙に勝利した。一方、もし、レオが保守党の下院議員となっていたならば、ブレアが労働党で大きな成功を遂げることは極めて難しかったろう。労働党内で、ブレアへの疑いが残ったからだろうからである。