「鉄の女」サッチャーの真実

イギリス最初の女性首相マーガレット・サッチャーは、「鉄の女」として有名だ。しかし、そのそばで1981年から84年まで働いた人物によると1982年のフォークランド戦争はサッチャーに非常に大きな負担だったようだ。この戦争にサッチャーはたいへんな責任を感じ、心配し、そしてそれがサッチャーのそれ以降に大きな影を投げかけたという。

1979年に首相となってから党内でサッチャーの強硬な政策に反対する勢力(ウェット派(Wets))に対応するのに神経をすり減らしたこともあるようだ。

首相に就任したが、支持率が歴史的に低くなったサッチャーが首相として再選されるとは誰も思っていなかった。しかし、1982年のフォークランド戦争がその命運を変えた。この戦争で勝利を勝ち取り、人気を回復し、しかも野党第一党の労働党が分裂する中、サッチャーは1983年の総選挙で大勝した。保守党は下院で他の政党の合計を144議席上回ったのである。

誰もがサッチャーは政権運営に自信を持っているだろうと思ったが、実はそうではなかったという。この総選挙勝利の数日後、サッチャーは、自分はそう長くない、党は次の選挙を自分の下で戦いたいと思わないだろうが、それらの人たちを責められない、と語ったという。サッチャーは弱気になっていた。

サッチャーの仕事ぶりは有名だ。深夜まで働き、その睡眠時間は4時間と言われた。しかし、1983年総選挙以降、サッチャーの仕事のペースはそれまでと同じではなかったという。サッチャーはエネルギーが衰えたように見え、真夜中を超えて働いたり、夕食会のお客を引き留め、さらにディスカッションをしたりするといったことがほとんどなくなったという。

それでも、サッチャーは「鉄の女」の面を大いに発揮する。それまで党内基盤がぜい弱であったためにウェット派を自分の内閣に多数抱えていたが、それらの多くを内閣から追い払い、また、1985年には、政権を象徴した出来事の一つである鉱山労働者との対決で、鉱山組合に対する勝利を収めた。次の1987年の総選挙でも保守党は余裕をもって勝ち、サッチャー政権は1990年まで続く。

ただし、今回明らかになったのは、自分を信じ、疲れを知らず、強いリーダーシップを発揮して働き続けたと信じられていたサッチャーに非常に人間的な面があったことだ。自分への疑いを持ち、しかも政敵との戦いに神経をすり減らしていた。サッチャーの「鉄の女」の面は、自分を守る仮面であったかもしれない。ただし、多くの重圧にさらされ、苦しみながらも、理想の首相像を演じ続けたサッチャーから私たちが学べることは少なくないように思える。

サッチャーの人生については拙著「マーガレット・サッチャー:イギリスを変えた女性」を参照。

 

マーガレット・サッチャーと名付けられたバラ

新しく公開された資料によると、マーガレット・サッチャーと名付けられたバラが二つあるようだ。一つは、日本の高取さんという方のバラで、もう一つはドイツのKordesという会社のものである。

その資料によると、1984年、首相官邸に当時の西ドイツの園芸協会が、バラにマーガレット・サッチャーという名をつける許可を求めてきた。サッチャーは、それに胸をうたれたという。そして赤は(労働党の色であることから)どうかしらと思ったというが、(保守党の色である)青を求めるのは、行き過ぎだろうと言ったそうだ。 

バラは、強く、しっかりとした茎をもち、しかも長続きすると言われて喜んだという。

ところが、その時には既に、マーガレット・サッチャーと名付けられたバラがあった。その6年前、サッチャーが野党の保守党の党首であった時、日本の高取さんに自分の名前を使うことを了承していたのだ。

ドイツのマーガレット・サッチャーと名付けたバラの話は世界的に広がり、高取さんは、首相官邸に手紙を書いて、苦情を申し入れたという。苦慮したサッチャーらは、この問題の解決にかなりの時間を使い、その記録文書はなんと40ページにもわたった。サッチャーの側近は、ドイツ側がずるく立ち回ったと判断したが、高取さんに手紙を書いて、高取さんのバラに高い敬意を持っているとしながらも、ドイツ側の理由も説明し、円満に解決するよう促したという。

結局、この二つのマーガレット・サッチャーのバラは、異なるものであるが、それ以上の紛争に発展することはなかった。