メイ首相の1ヶ月

テリーザ・メイが7月13日に首相に就任して1か月たった。現在、スイスで8月24日まで夏季ホリデー中だが、1型糖尿病でインシュリン注射の必要なメイは、特に健康に留意しなければならないのは当然であり、休暇は必要なものだと言える。このスイス行きは、イギリスがEUを離脱することとなったことを受け、EUでもなく、イギリス国内でもない所を選択するという政治的判断が絡んでいると見る向きがある。それでも、スイスでのウォーキングホリデーの愛好者であることを考えるとそう深く考える必要もないだろう。

それでは、これまでの1ヶ月の評価はどうか。筆者の見るところ、残念ながら、十分なものではない。メイの本来の慎重さと勇み足がミックスしたもので、期待外れの結果となっている。

「誰にもうまく働く政府」

メイは、その首相就任直後の官邸前の演説で「誰にもうまく働く政府」にするとした。そして、重要な政策を決める時、強い人を慮るのではなく、弱い立場の「あなた」をまず考えるとしたのである。この原則を政府全体で実施するとしたが、これは今のところ勇み足に終わっている。

なお、メイをソフトな政治家と考えるのは誤りである。メイは、保守党の右として知られ、例えば、内相として欧州人権条約から離脱したかったが、保守党の中にも反対があり、実現不可能であるため、保守党党首選に立候補する際に、公約から外した経緯がある。

フラッキング 

メイは、フラッキングの実施に、この原則を適用し、この作業の実施される地域の住民に直接現金で補償するとした。フラッキングは、地下のシェールガスなどを取り出すため超高水圧で岩体を破砕するものである。イギリスにはこのガスの埋蔵量が多く、現在の消費量の500年分以上あり、今後の燃料源として期待されているが、環境団体などから、地下水の汚染や地震などの原因となるなどとして反対が強い。一時、原油などの燃料価格の低落で、フラッキングのコストが見合わないのではないかという見方があったが、今では、掘削申請が数多く出ており、メイは、この促進を積極的に図る考えだ。

フラッキングは、キャメロン政権でも推進されていた。オズボーン前財相は、フラッキングで政府が得られた税収の一定割合をコミュニティファンドなどとして、該当コミュニティや地方自治体に支給する構想をもっていたが、メイの場合、それを地域の住民が直接金銭的な便益を受けられるようにするというのである。5000ポンド(70万円)から2万ポンド(280万円)程度と見られている。

メイは、これを「誰にもうまく働く政府」の一環と位置付けているが、果たして、これがそういうものに当てはまるかどうか?地下2~3千メートルといったかなり深いところの作業だが、そのような地域の住人に現金で補償することが、本当に「強い人を慮るのではなく、弱い立場の『あなた』」を考えることになるのかどうか?これでフラッキング反対運動を本当に抑えることができるのかどうか?

その上、住民が何らかの金銭的補償を受けられるとしても、それは、掘削し始めてから5年以上後のことであることがわかった。メイがフラッキングをその原則の一つの適用例として挙げたが、かなり針小棒大の傾向があるように思われる。

グラマースクール

教育の面では、メイが推進する「グラマースクール」がある。グラマースクールとは、児童が10から11歳で受ける11プラスと呼ばれる学業達成度試験で優秀な生徒が進学を許される公立の中等学校である。これまでにグラマースクールの大半が廃止されるか、非選別の総合学校化もしくは私立化されたが、今も一部残っており、政府の教育省が管轄するイングランド(それ以外は分権政府が担当している)の3000ほどの中等学校のうち、163校ある。しかし、新規の開設は許されていない。なお、スコットランドとウェールズにはないが、北アイルランドには69校ある。このグラマースクールの新規開校を許す政策が、首相官邸のジャーナリストへのブリーフィングで紹介され、この10月の保守党の党大会で正式に発表し、推進される考えであった。

グラマースクールは選別学校であり、11歳で人生が決定される結果となるとして、多くの批判がある。メイの父親は英国国教会の牧師で、メイ自身グラマースクールに入学したが、在学中に選別無しの総合学校となった。恵まれない家庭の子弟でも、私立のパブリックスクールのような優れた教育が受けられ、社会の流動性、すなわち、貧しい家庭出身の子弟が、このルートを通じて、社会的に階層を上がれると評価する向きもあるが、その効果には疑問があるという主張も強い。メイの保守党の中にもグラマースクールの新規開設に反対する声がある。グラマースクールの新規開設を許す方針というニュースを受け、労働党、自民党が直ちに反対し、この政策が具体化されるには多くのハードルがある。

メイは、自分の選挙区に既成のグラマースクールの分校を設ける案に賛成しており、このような政策が出てくることは予想されていた。メイの「誰にもうまく働く政府」の原則から見れば、この政策が推進される理由付けは、基本的に優秀な生徒の能力を伸ばし、それほど優秀でない生徒には、それとは異なる道を選ばせることが、それぞれのためになるという理由付けがあるのではないかと思われる。

反対意見の強さに、メイ政権は、新規グラマースクールの許可を20程度と地域と数を限定して実施することにした。反対の強さが示すように、「誰にもうまく働く政府」が、メイらの考えている姿と、それ以外の人たちの考える姿でかなり差があることは明らかである。

これに関連し、大学教育の担当をビジネス省から文部省に移したが、大学も「間引き」が進む可能性があるように思われる。すべての人に大学教育が与えられるべきだとして、大学の数が急増した。このため、大学卒業生の数も急増したが、その学位の価値が下がったという批判があり、大学を出ても、それに見合う仕事に就けないという現実がある。メイは、内相時代、外国人留学生のビザ取得、並びに卒業後の滞在期間に大幅の制限を加えた。多くの大学は、授業料の高く取れる留学生で経営が成り立っていると言われるが、大学によっては、ビザの制限で大学院などへの応募者が大きく減ったと言われる。グラマースクールの理屈でいけば、優れた大学は残るが、そうでない大学は減る可能性があるように思われる。

高齢者ケアの自己負担の原則

さらに、高齢者ケアの問題では、首相官邸の政策責任者が、コストの問題で発言した。既に5人の1人は、ケア費用に10万ポンド(1400万円)以上かかっていると言われるが、資産価値のある住宅を持っている人は、それを全体もしくは部分を売却したり、その資産価値を使ったりして、その費用に充てるようにすべきだという。すなわち、「誰にもうまく働く政府」とは、少しでも資産のある人は、それを使い、ない人は公共がカバーするという形になるようだ。キャメロン政権では、2016年から個人負担の上限を72000ポンド(1000万円)とすることとしたが、この制度の導入は2020年まで延期された。しかし、この上限をさらに上げる、もしくは上限を撤廃し、基本的に個人の負担に重きを置く制度にする意図があるように思われる。しかし、これは、伝統的な保守党の政策、すなわち相続税を軽減し、なるべく資産を子弟などに残す方針に反し、スムーズにいかない可能性が高いように思われる。

重要施策の決定延期

ヒンクリー・ポイントC原子力発電所は、フランスの電力会社EDFが中国の資本協力を得て建設することになっており、EDFの役員会でそれが承認されたが、政府が再検討することを表明した。その決定は、今秋まで延期された。メイがそれを求めたためだと言われる。この原子力発電所の建設は、キャメロン政権で推進されていたが、これには原子炉のタイプ、建設費用、将来の保証価格など、多くの問題があり、再検討することには何ら不思議な点はない。しかし、この決定には、中国側が反発している。特に中国がこの建設に関与することで、セキュリティリスクの問題を指摘する見解があり、中国側がそう簡単には引き下がれない状態にある。イギリスのEU離脱で、中国との関係が重要となるだけに、簡単に再検討というだけでは許されない状況にある。

また、ロンドンのハブ空港であるヒースロー空港がほとんど満杯の状態になっていることから、ロンドン近郊の空港建設・拡張が急務になっている問題がある。キャメロン前政権で、空港委員会を設け、その委員会は、昨年7月、全員一致でヒースロー空港に第三滑走路を建設することを答申した。しかし、ヒースロー空港周辺は航空騒音などの問題で反対運動が強く、キャメロンは決定をEU国民投票後まで遅らせていた。メイは、この決定を秋まで延期した。メイの選挙区でも反対が強い上、内閣には、ヒースロー空港拡張に反対する閣僚が何人もいる。そのうちの1人は、ジョンソン外相である。また、航路が選挙区周辺となるために反対しているグリニング教育相やハモンド財相がいる。ガトウィック空港の拡張へ見方が移っているという憶測もある。

どのような判断となっても、その手法は、上記のフラッキングのように税収の一部を利用して基金を設け、影響を受ける地元住民へ金銭補償となるように思われる。このようなやり方には、金銭補償を受ける住民と受けない住民との溝を広げるだけという批判があり、本当にそのような手法が「誰にもうまく働く」という具合にいくか疑問がある。

イギリスのEU離脱後、経済の先行きが不透明な中、大規模公共事業の推進が求められているが、これらの大規模プロジェクトの判断が遅れている。さらにイギリスがEUから離脱する上での交渉の立場を決める作業を急速に進めていく必要がある。

まだメイ首相の政策は、部分的にしか明らかになっていない。これまでは、そのレトリックに対して様々な解釈がなされてきたが、右寄りのメイが、キャメロン政権の緊縮政策を大幅に変更するとは考えにくい。かつて、ブレア労働党政権下、経済成長が続き、歳入が大幅に伸びた時期があるが、それまでの公共セクターへの不十分な投資への対応などで公共セクターへの実際の効果はかなり制限された。メイ政権下、EU離脱投票の影響で歳入が伸びないような状況下、メイ首相の手は縛られている。メイが国民に「誰にもうまく働く政府」を運営していると思わせられるかどうか、かなり難しいといえる。