既に終わりの見えたトラス首相

リズ・トラスが首相に就任したのは、9月6日である。ところが、就任してまだ一ヶ月もたっていないのに、既に終わりが見えてきた。

9月23日にクワーテン財相が鳴り物入りで発表した「成長戦略」で、450億ポンドの減税を国が借金(国債)して賄うこととした。また、高額所得者に対する45%税率を廃止するなど高額所得者優遇が目立ったが、この「成長戦略」には財政見通しがついておらず、英国は金融市場の信頼を失った。その結果、英国の通貨ポンドが米ドルに対して急落、英国の国債の金利が大きく上がった。英国政府のこの動きを、異例なことだが、IMFが強く批判した。さらにマージンコールに直面した年金ファンドが支払不能になって、つぶれる直前に追い込まれた。中央銀行であるイングランド銀行は、それらの年金ファンドを救済するため急きょ650億ポンドを用意し、とりあえず事態を鎮静化した。また、10%程度となっているインフレを抑えるために、イングランド銀行の政策金利が大きく上昇することが予想され、住宅ローン(モーゲージ)の金利が大きく上昇することが確実となったため、金融機関が、モーゲージ商品の多くを取り下げる動きにでた。さらに既にモーゲージを利用して住宅を購入している人たちは、その支払利子が大きく上昇する見込みとなった。

この金融危機の中で、クワーテン財相は沈黙し、トラス首相は姿も見せず、9月29日にBBCの地方局らのインタヴューで、「いったいどこにいたのですか?」という質問が出たくらいだった。

世論調査の大手YouGovがタイムズ紙の依頼で行った9月28日-29日の世論調査(総選挙が明日あれば、どの政党に投票しますか?)では、保守党21ポイント、労働党54ポイントの結果で、労働党が33ポイントリードした。1990年代後半以来、そのようなリードを記録した政党はないという。ただし、この世論調査は「外れ値」(他の世論調査の結果から大きく外れたもの)ではないようだ。直近(9月30日時点)の世論調査では、保守党と労働党だけを比較すると、下記(Wikipedia参照)のように労働党がおおむね20から30ポイント保守党をリードしている。

世論調査実施日世論調査会社保守党労働党労働党リード
29-30 SepOmnisis23%55%32%
28–29 SepPeoplePolling20%50%30%
29 SepSurvation28%49%21%
28–29 SepTechne27%47%20%
28–29 SepYouGov21%54%33%
28–29 SepRedfield & Wilton29%46%17%
27–29 SepDeltapoll29%48%19%
23–27 SepFindOutNow27%45%18%
23–26 SepOmnisis32%44%12%
22–26 SepKantar Public35%39%4%
25 SepRedfield & Wilton31%44%13%
23–25 SepYouGov28%45%17%

これらの結果は、労働党の党大会が成功裏に終わったことに関係している。保守党は、10月1日から5日まで党大会を開催するが、このような世論調査の結果では、盛り上げるのは極めて困難だ。次期総選挙は遅くとも2025年初めまでに行う必要があり、トラスの時間は限られている。9月30日には少し危機が落ち着いてきた様子があるが、「モノを壊したあとで使用説明書を読むようなものだ」とトラス政権の対応を批判する声がある。一時的であったとしても有権者からこれだけの批判を浴びた政権が立ち直り、次期総選挙を勝つのは至難の業と言えるだろう。

トラス首相が誕生する

9月5日、リズ・トラスが保守党の党首に選出された。9月6日に英国の首相に就任する。生活危機の対応など、直ちに取り組まねばならない課題は多い。しかし、世論調査会社大手のYouGovの世論調査によると、英国民の反応は、ネガティブである。トラスの生活危機への対応を「かなり/ある程度信頼できる」とする人は19%しかない。その反対に、「あまり/全く信頼できない」とする人は67%に上る。保守党投票者でも、「かなり/ある程度信頼できる」とする人は35%で、「あまり/全く信頼できない」とする人は54%にも上る。幸先がよくない。

生活費の高騰はすでに危機的状態になっている。これは、保守党党首選期間中に悪化した。エネルギー価格の高騰で、多くの家庭や企業が光熱費を支払できないような状態になっている。ウクライナでの戦闘の終わりは見えず、エネルギー価格は長期的に高止まりになる可能性が高まっている。この光熱費だけの対応でも何百億ポンドも必要だと見られている。また、食費はインフレで上昇しているが、ポンドが下落しているためさらに上がる。インフレ対策で政策金利が上がっているが、さらに上がる見込みで、住宅ローン(家庭)、借金(企業・政府)の金利支払いがさらに大きく増える状況だ。

NHSは過去10年ほどで、その業績が大幅に悪化したが、コロナ禍のためにさらに悪化した。病院の順番待ちは記録的な水準になっている。8人に1人が治療を待っている状態だと言われる。救急車の通報を受けてからの対応はますます遅くなっており、たとえ救急病院に到着しても、それから見てもらうまでの待ち時間が長くなっている。これからNHSの最も忙しい冬が来る。これまで十分に賃金が上がっておらず、今や生活危機・インフレで実質賃金が下がり、不満の高まる看護師らのストライキの可能性が高まっている。

歴代の政権、特に2010年以来の保守党政権(2010〜5年は自民党との連立政権)が、政府のコストを下げようとして、予算を絞り、効率アップに走り過ぎた結果、効率は必ずしも上がらず、同時に将来への投資が大きく減った。一方、経済成長には、企業が英国で投資しやすい環境を作ることが大事だと企業に多くの優遇措置をとってきたが、民営化された水道事業で表面化したように、狙い通りに働いていない面がある。これらから生じた問題が、生活費の高騰で一挙に吹き出てきている。2010年よりも賃金が下がっていると言われる公共部門の労働者を中心に、労働関係団体が歩調をそろえてゼネストのようなストライキを実施する可能性も出てきている。

このような時期に首相になるトラスは、不運だともいえる。その上、トラスには保守党右派の強いイデオロギーがあり、現実の問題に柔軟な対応が難しい面があるように思われる。減税、減税と訴えてきて、減税を実施すると改めて主張したが、インフレの中での迂闊な減税はさらなるインフレを招きかねない。ゴールドマンサックスは、英国は来年には22%にもなる可能性があるとコメントしているが、そのような事態を招くと政権そのものが危機となる。イタリアで、トラスの党首選勝利の演説をロボットのようだと評したと報道されているが、トラスは頭を切り替えないと、政権発足のハネムーンどころか、一挙に政権危機に陥る可能性もなきにしもあらずだと思われる。