NHS改革とマニフェスト(Was the NHS Reform in the Manifesto?)

選挙時のマニフェストは、政権に就いた後、何をするかを書いたものであり、それを見れば、どういう施策を実施するか分かり、それを基にどの政党に投票するか決められると考える人が多いかもしれない。しかし、ことはそう単純ではない。ここでは、キャメロン連立政権で実施中のNHS(国民保健サービス)の大改革の例を見てみる。

2010年5月の総選挙で過半数を占める政党がなかったため、保守党と自民党の連立政権が誕生した。キャメロン首相は、イングランドの健康・医療を司るNHSを担当する厚生大臣に保守党下院議員を任命した。この下院議員は、それまで「影の厚生大臣」を長く務めてきた人物で、保守党政権が誕生すれば、どのようなNHSにするかを考えてきていた。一番大きな問題は、その前の労働党政権でもはっきりとしていたことだったが、高齢化などで急速に増大する医療需要と薬品や機器の高額化で、NHS財源が危機的な状況となるということであった。この問題への対策は、この影の健康相の最も大切な検討課題であった。

保守党は、その前の2005年の総選挙のマニフェストで、患者の待ち時間を減らすために、私立の医療機関での治療にもNHS予算の投入を謳ったが、NHSの民営化だと大きな批判を浴びた。

2010年の総選挙の前には、無料で診察、治療の受けられるNHSの問題は、国民の最も大きな関心事の一つで、信用危機のもたらした経済問題の次に重要であった。保守党が選挙で勝つには、そのNHSへの立場のために票を失えない状況であり、キャメロン党首は、国の巨額の債務への対策を取るために財政削減を実施すると言いながらも、次の5年間、NHS予算を毎年増やすという約束をした。マニフェストでは、保守党は「NHSの党」であり、それまでNHSの価値を守るために継続して戦ってきた、労働党政権の予算カットや組織組み直しからNHSを守るために運動してきたと主張した。そして、NHS利用時に医療を無料で受けられる考えを決して変えることはないと言った。そこには2005年のマニフェストで「NHSの民営化」と非難された、私立の医療機関へのNHS予算の使用といった言葉はなかった。また、2005年のマニフェストで述べた、ストラテジック・ヘルス・オーソリティの廃止とプライマリ・ケア・トラストの大幅削減には触れなかった。2005年のものと同様、トップダウンの運営方式ではなく、地域のGP(家庭医)が患者の予算の使い道を判断し、どこに患者を送るかなど決定をする役割に触れ、NHSのお役所仕事を減らすために、管理費の3分の1削減などといった考え方を表明した。

保守党のマニフェストを見た専門家たち、例えば、評価の高い中立系の医療健康問題のシンクタンク、キングズ・ファンドは、主要三党のマニフェストは似通っており、あまり大きな差はないとコメントした。そして、緊縮財政下、NHS予算が減るかどうかに注意を削がれたせいか、保守党のマニフェストの内容はほとんど議論されないままだった。

保守党と自民党の連立政権合意書でも、その内容についてはほとんど明らかにされることはなかった。①NHSの予算を5年間毎年純増する、②NHSの管理コストを3分の1減らす、などと触れていただけで、むしろプライマリ・ケア・トラストの役割にも触れている。この連立政権交渉に当たった、自民党のデービッド・ロウズの、交渉過程を扱った著書「22DAYS IN MAY」ではNHSの交渉についてはほとんど触れておらず、その内容についてはほとんど話し合われなかったようだ。

ところが、2010年6月に厚生大臣が発表した白書を見て、大騒ぎになった。保守党系のテレグラフ紙が、NHS創設以来最大の大改革だとコメントした。これには、医療関係団体のほとんどが反対する騒ぎとなった。ストラテジック・ヘルス・オーソリティとプライマリ・ケア・トラストを廃止し、その役割をGPなどにコンソーシアムを作らせて担わせる制度とする方針だったからだ。NHSは140万人が働く世界でも有数の大きな組織である。その組織の、例えば、日本で言うと、地方管区と都道府県レベルの組織を廃止し、その役割を、その先の地域のGPらの集合体に担わせようというわけである。確かにそのような組織改革を行えば、管理費は削減できるかもしれない。しかし、多くの人を解雇せねばならず、組織替えの費用は莫大なものとなる。その上、そのようなシステムがきちんと目的通り働くか、非常に大きなリスクがある。

そのため、マニフェストで言わずに突然大改革をするつもりだと大きな批判が巻き起こったが、実は、その考え方の大枠の骨子は、マニフェストに入っていた。しかし、実際にそれをどのように実施するかの詳細が抜けていたのである。そのために、保守党の本当の意図が選挙時にはわかっていなかった。キングズ・ファンドの医療問題の専門家でも、それが見抜けなかった。保守党のマニフェストを書いたオリバー・レトウィンが、キャメロンらの指示を受けたのだろうが、真意がわからないよう筆を控えたのは明らかである。

しかし、自民党は、その白書を飲み、改革に協力した。確かにNHSの面する財政問題を考慮すれば、大きな改革が必要なのは明らかであり、この大変革の理論を受け入れたのである。関係者からの大きな反発のために、ヒアリングの時期も設けたが、2012年3月に「医療・社会的介護法」として成立し、実施に移されることとなった。もしこの計画が、マニフェストで明らかであったならば、保守党が実施に移せる可能性はなかったように思える。

政策の外注の効用(Outsourcing Policy-Making)

英国政府が、政策の外注を試験的に始めた。これは、国家公務員らの政策立案は、幅が狭く、新しいアイデアに乏しい傾向があるという反省に基づき、シンクタンクや学者グループらにアイデアを外注することによって、より斬新で効果的な政策をより安価に求めようという考え方である。

この8月1日に政府が公募したのは、行政と政治家との間の関係を見直すもので、オーストラリア、シンガポール、米国、フランスそしてスェーデンの実例を検討しながらも、特にニュージーランドのモデルに的を絞っている。ニュージーランドでのモデルは、政治家である大臣が具体的な成果を求め、各省庁の責任者との間で契約関係を結び、それぞれの責任者が政策を実施し、その責任を持つことになっている。この政策外注では、政府とその関係機関がどのような機構を持ち、どのように機能しているかについての分析、評価をするもので、それらを英国にあてはめる場合、どのように実施するかの提案を求めるものだ。キャメロン首相は7月に下院の委員会委員長連絡会議で、行政をフランスや米国式の政治化されたものにする必要はなく、「常設で中立の国家公務員制度」を維持すると発言している。しかし、これは、行政の仕組みを根本から見直すもので、行政外からのインプットを求めるにはふさわしいプロジェクトと言えるだろう。

この公募は、6月19日に発表した国家公務員改革計画で設けた、コンテスタブル政策基金(Contestable Policy Fund)で賄う。これには50万ポンド(6200万円)の枠があり、省庁がさらに同額を自主調達し、合計100万ポンドで実施することになっている。それを利用した初めての政策外注で、今回は5万ポンド(620万円)の予算である。

さて、英国と比べて、日本の民間、特にシンクタンクと学者グループに政策形成能力が乏しいように思われる。それが日本の政党のマニフェストなどの政策形成能力に影響し、また、マニフェストへの建設的な批判が乏しいことに結びついているのではないかと思われる。日本で大きな問題だと感じられるのは、マニフェストに書かれたことが実行されたかどうかに力点が置かれ過ぎ、その中の政策が妥当かどうかは二の次になっている点だ。マニフェストで述べられた政策が妥当かどうかの「厳しい評価」があってこそ、マニフェスト選挙・政治の意味が出てくると言える。しかし、政策を「厳しく評価」するには、かなり高い能力が必要である。

英国では数多いシンクタンクや学者グループに、そのような高い能力を持っている場合が多く、特に中立系で「Respected」と表現されるものの見解が注目される。しかし、日本では、そのようなことのできるシンクタンクや学者グループがどの程度あるだろうか?もちろん、日本では政府や政権政党の政策への批評は、後難を恐れ、避ける傾向にある風土もあるだろう。また、研究資金の出所の問題もあるように思われる。しかし、シンクタンクや学者グループなどの政府外の団体の能力を伸ばし、斬新な見解の発表が促進され、活発な議論が行われる環境にしていく必要があるように思われる。