スナク前首相が7月4日総選挙に踏み切った一つの理由

7月4日に行われた総選挙は、もともと2024年秋に実施されると見られていた。5年の任期が終わるのは2025年1月であり、スナク前首相が以前から総選挙は、2024年後半に想定していると発言していたこともある。ところが、2024年5月22日、スナク首相が突然、7月4日に総選挙を行うと発表した。この発表には、閣僚にも驚いた人が多かった。保守党下院議員らには、まだ準備ができていないと苦情を言う人もいたが、7月4日は、確かに2024年の後半に数日の差で入っている。そこで当然のように出てきたのは、なぜこの時期に突然総選挙をすることにしたのか、という質問である。

スナク元首相は、高かったインフレ率が大幅に下がってきて、経済が回復し始めたからと発言したが、それなら秋まで待って、有権者が実感できるようになってからの方が良かったのではないかという声があった。さらに、違法に入国してきた亡命希望者をアフリカのルワンダに送る計画は、7月中にも始まるとされていたが、それなら、もう少し待って、ルワンダへの便が始まってからの方が、違法移民の問題に関心を持つ有権者に対して良いのではないかという見方もあった。ただし、ルワンダに亡命希望者を送る計画は、少なくとも500万ポンド(約1000億円)の費用がかかり、そのかなりの部分は既に支払い済みである。一方、最高裁の下した、ルワンダは安全な国とは言えないとの判断を受け、法律を改正してルワンダを安全な国としたが、十以上の裁判が続いていた上、欧州人権裁判所の介入の可能性もあり、スナクは欧州人権裁判所を無視する可能性も示唆したが、いずれにしても実施が容易ではなく、それが急な総選挙の理由ではないかという見方もあった(なお、スターマー首相はルワンダに送る計画は直ちに廃止した)。

ところが、スナク前首相の総選挙実施の判断に、刑務所の問題が大きな役割を果たしていた可能性が出てきた。イングランドとウェールズの刑務所は、ウェストミンスターの英国政府の管轄であるが、それが定員の99%までいっぱいになっている状態が続いている。刑務所が一杯になると、裁判所が収監刑を科せなくなる。これは、深刻な問題で、政権、法務大臣、さらに国家公務員が法的な責任を果たさない「重大な不履行(Critical Failure)」という結果となる。

警察の収監施設もいっぱいになっている。違法に入国してきた亡命希望者なら、ホテルなどに一時収容することが可能だが、裁判所で収監刑を科された人々の場合はそうはいかない。この問題の対策は、刑務所を建てるとともに、刑務官をトレーニングするしかない。それは急にはできないことから、刑務囚で、刑期の一定割合を終えた人々を、保護観察しながら、刑務所から出して空きを作るしかないことになる。

この問題が、刑務所を所管する法務省から5月15日に首相官邸に報告があったそうだ。打つ手はすべて打ったが、残りは、刑期を短縮(現行の50%から新たに40%へ)して刑務囚の数を減らして対応するしかないというのである。当初、スナク前首相は、この対策に消極的だったといわれる。議会に諮る必要があるが、保守党の中に強い反対があるだろうから議会を通らないかもしれないというのである。また、この政策は、「法と秩序(Law and Order)」の問題に強いというイメージのある保守党にとっては、非常に大きな痛手となる。結局、スナク前首相は法相のアドバイスを受け入れたが、実際にその行動を起こす前に、直ちに総選挙を実施することを決めたようだ。

もちろん、スナク前首相の判断には、それ以外のこともあったかもしれない。しかし、この刑務所の問題が主要な要因となったのではないかと思われる。

ちなみに、スターマー首相率いる労働党新政権では、新法相が保守党前政権を「責任の放棄だ」と厳しく批判した。そして刑期の4割を終えた、特に問題のない人たち数千人を9月に刑務所から出すと発表した。

労働党政権の最初の関門

スターマー首相は、総選挙の選挙運動中、3人目以降の子供に対する手当は支給しないとした保守党の政策を継続すると表明した。この政策は、保守党政権が2017年4月に実施したものである。現在の政府の財政状況では、NHSを始め、直ちに対応しなければならない課題が多く、そこまで余裕がないというのである。

Resolution Foundationシンクタンクによると、保守党のこの政策で、影響を受けた家庭は、過去6年間で7万から45万世帯に増えたという。3人目以降の子供1人当たり、3455ポンド(約70万円)の影響があるそうだ。貧困の状態にある子供の数は、これまでで最も高いレベルに達したとする。もし、この政策が廃止されれば、30万人の子供が貧困でなくなり、その費用は17億ポンド(約3400億円)とする。

スターマーは、所得税、国民保険、そして付加価値税の税率は上げないとしたが、それ以外に、他の税への課税や財政の計算方法を変更し、この政策撤廃の財源を生み出すことは可能だとする見方もある。

確かに労働党は、自らに課した、財政に関する制約の中で経済運営をするという極めて慎重な方針を取っている。子供の貧困問題に対する戦略はあるというが、子供に対する手当の予算は今のところついていない。それと同時に、「子供手当は、2人まで」という一種の象徴的な制限を継続することで、他の同じような要求に拡大することを防ぐ意図があるように思われる。

その一方、労働党は、一刻も早く経済成長を成し遂げ、財政を向上させたいという考えがある。労働党の総選挙大勝利は、金融市場に好意的に受け止められた。ドイツやフランスの政治が不安定な中、英国は労働党の地滑り的大勝利で、政治的に安定し、プロビジネスの経済環境を熱心に作ろうとしている。必要な海外からの投資を招きやすくするための環境づくりにも懸命だ。慎重にその効果を測りながら進めて行くことになるだろう。

労働党は、下院で他の政党を大幅に上回る議席がある。この子供手当の問題では、労働党の中にも、子供の数の制限を撤廃すべきだという意見があり、もし7月17日に発表される政府の計画(国王のスピーチ)にそれが含まれていなければ、それに修正動議を出すと公言する下院議員もいる。スコットランド国民党や緑の党もそれに同調する予定で、さらに総選挙で72議席を獲得した自民党もその可能性をほのめかした。労働党が下院で圧倒的に多数を占めているため、かなり多くの労働党下院議員が政府の計画に反対しても、政府案通りの結果となるが、異論の多い事案では、この問題のように、政府対野党連合のような対立の構図となるだろう。

スターマー労働党は政権を少なくとも10年は続けていきたいと考えている。野党連合や世論と対決しなければならない事態は、なるべく避けたいのではないかと思われるが、この段階では、譲歩の可能性は少ないように思われる。