北アイルランドの平和に貢献した「Dr. No」の死

北アイルランドのDr. Noこと、イアン・ペーズリーが2014912日、88歳で亡くなった。ペーズリーは北アイルランドの前首席大臣である。キャメロン首相は、「物議をかもす人物だったが、後年、北アイルランドの平和に大きな貢献をした」と評した。

なぜ、Dr. Noが「首席大臣」になったのか?どのような貢献をしたのか?

ペーズリーは、プロテスタントのキリスト教長老派の牧師だったが、カトリックを心底嫌った人物である。そして北アイルランドを南のアイルランド共和国と統一させようとするカトリックの「ナショナリスト」に強く反発した。 

イギリスとの継続した関係を求める「ユニオニスト」の強硬派として、ナショリストたちとの妥協を拒否した。そして政治のリーダーとなり、後に民主統一党(DUP)を設立するに至る。ペーズリーは、欧州議会議員とイギリスの下院議員、そして北アイルランド議会議員も同時に務め、北アイルランドで最も有名な政治家となる。

その立場は後年までほとんど変わらなかった。北アイルランドを武力で南のアイルランド共和国と統一しようとしたアイルランド共和軍(IRA)の政治団体シンフェイン党との交渉を一切拒否した。二つの立場の対立で多くの死者を出した北アイルランド問題を解決するための1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意)にも反対した。ベルファスト合意後の北アイルランドの住民投票では75%以上の人が賛成したが、その際にも反対運動を展開した。それでもベルファスト合意に基づいて行われた北アイルランド議会議員選挙でDUPがユニオニスト側第二位の議席を獲得し、二つの大臣ポストを獲得すると、自党から二人の大臣を出したが、閣議にあたる会議にはシンフェイン党とは同席しないと出席を拒否した。

その段階では、ベルファスト合意をもたらせたユニオニスト側最大勢力のアルスター統一党(UUP)が主力で、ペーズリーのDUPは脇役と考えられていた。ところが、IRAの武装放棄が予定通り進まなかったことなどから議会が混乱し、その結果、北アイルランド議会が停止された。この過程でUUPがユニオニスト側の有権者の信用を失い、2003年に行われた議会議員選挙ではペーズリー率いるDUPが第一党となる。

DUPでは、北アイルランド問題解決への話が進むわけがないと思われたが、ペーズリーはこれから妥協への道を進んだ。トニー・ブレア元首相の首席補佐官だったジョナサン・パウエルは、重病を患い、生死の境をさまよったペーズリーが、「これからはイエスと言うよ」と言ったと言うが、ペーズリーは2006年のセントアンドリュース合意を経て、2007年に行われた議会選挙後、かつて不倶戴天の敵であったシンフェイン党の元IRA司令官マーティン・マクギネスを副首席大臣とした分権政府の首席大臣となる。

これにはDUP内に非常に大きな影響力のあるペーズリーの役割が極めて大きかった。しかし、ペーズリーはマクギネスと非常に仲がよくなり、「クスクス笑いの兄弟」と呼ばれるほどの関係となり、ユニオニストの関係者から顰蹙をかった。

ペーズリーの悲報を聞いたマクギネスは、二人の親しい関係はペーズリーの首席大臣退任後も続いたとコメントした。 

ペーズリーがなぜ、Dr. NoからDr. Yesとなったのか?

ペーズリーがDUP党首・首席大臣を退いた後、後任となったピーター・ロビンソンは、状況が変わったからだという。これは正しいようにと思われる。ペーズリーは、それまで自分の信じる方向にのみ向かっていた。ところが、突然、自分が動かなければ何も動かないという状況になり、「神の手」を感じたのではないだろうか?信仰者独特の啓示のようなものを受けたように思ったのではないかと思われる。ペーズリーの突然の「転向」は、多くを驚かせ、また、厳しい非難も浴びた。

シンフェインとIRAは交渉の相手がペーズリーでなければ、武装放棄などの問題で大きな譲歩には踏み切っていなかったかもしれない。つまり、ちょうどよいタイミングでペーズリーが主役となったように思われる。北アイルランドの問題はまだ続いているが、ペーズリーが残した遺産には非常に大きなものがあるように思う。