ウィンストン・チャーチルが亡くなってから50年。改めて偉大な政治家とはどのような人物か考える機会を与えてくれる。偉大な政治家とは、失敗しない人物ではない。国が本当のリーダーシップが必要な、非常に苦しい状態に陥った時に、その困難にめげず、真っ向から立ち向かう勇気を持ち、国民を鼓舞しながら、困難を乗り越えていく人物といえるだろう。チャーチルは、そのような人物だったように思う。
政治家としてチャーチルには多くの失敗がある。しかも浮き沈みが激しかった。所属政党も、保守党から自由党、そして再び保守党と変わり、多くの保守党議員たちから変節漢と見なされた。保守党党首の数々の政策にも反対し、党内で異端者扱いされた時代が長かった。保守党首相ネヴィル・チェンバレンの宥和政策にも反対した。
しかし、ヒットラーのナチスドイツがポーランドに侵略し、イギリスがナチスドイツに宣戦布告した後、チェンバレンはチャーチルを海軍大臣に任命した。そして、チェンバレン首相の後任首相の候補者最右翼だった外相のハリファックス卿が首相となるのを辞退したためチャーチルにお鉢がまわってくる。ハリファックス卿は、上院(貴族院)議員であることを辞退の理由としたが、実際には、イギリスがナチスドイツに敗れるのは必至と見ていたことが本当の理由のようだ。
ナチスドイツが破竹の勢いで欧州を席巻している中、イギリスは他の国の助けなしにナチスドイツに立ち向かわざるを得ない状態だった。アメリカは孤立主義を取っており、参戦する様子はなかった。イギリスはナチスドイツにとても立ち向かえないと見る人が多かったのである。首相となったチャーチルが、第一次世界大戦時の首相ロイド・ジョージに入閣を打診したが、ロイド・ジョージは到底勝ち目がないと断ったくらいである。
チャーチルは首相に65歳で就任したにもかかわらず、その仕事へのエネルギーは驚嘆すべきものであったと言われる。そして第二次世界大戦で連合国を勝利に導いた立役者となった。国民の戦時中のチャーチルへの支持は非常に高かった。ところが、第二次世界大戦が終焉を迎える1945年の5月に行われたイギリス総選挙で、チャーチルは保守党を率いて戦い、労働党に大敗。国民は、よりよい生活を求めて労働党に投票したのである。そして、戦時中、チャーチル首班の挙国一致政権で副首相だったクレメント・アトリーが率いる労働党が政権を担うこととなる。
アトリーは、「ゆりかごから墓場まで」といわれた福祉国家を築き、現在では、多くの歴史、政治学者から戦後最も優れた政治家と評価されている。アトリーはチャーチルを非常に高く評価していた。チャーチルの国葬でも、既に高齢で、虚弱だったにもかかわらず、前日のリハーサルにも長時間立ち合い、翌日1月30日の葬儀でも非常に寒い中、参加した。葬儀が終わった時には、寒く疲れ果て、セント・ポール大聖堂の階段を降りるのに助けが必要だったといわれる。
アトリーは元軍人で少佐となった人物であったが、チャーチルには優れた戦争遂行能力があると思っていた。例えば、チャーチルは、自由党政権の海軍大臣として第一次世界大戦で大きな失敗をしたと見られていた。ところが、アトリーは、チャーチルの戦略は正しかったが、兵を率いた将軍たちに能力がなかったために作戦がうまくいかなかったと見ていたのである。
チャーチルは、その能力が生かせる機会に恵まれたと言えるだろう。チャーチルの行ったことがすべて正しいわけではない。しかしながら、自分の信念に従って、自分の生き方をした人物である。そのような人物でなければ、偉大な政治家にはなれないとも言える。日本は、そのようなトップ指導者に恵まれず、第二次世界大戦で敗れた。