メイ首相は、12月4日のユンケル欧州委員会委員長との会談で、EU離脱の第一段階の交渉で十分な合意を成し遂げ、第二段階の貿易を含む将来の具体的な交渉に移ることができると考えていた。しかし、その希望を叶えることはできなかった。
何が起きたのか?
実は、4日の午前中、イギリス側とEU側は一旦基本合意した。しかし、メイ政権を閣外協力で支える北アイルランドの民主統一党(DUP:下院に10議席持つ)が、北アイルランドと南のアイルランド共和国の間の国境をめぐる基本合意に反対したため、メイはそれ以上進めることができなかったのである。
第一段階の交渉では以下の項目で十分な進捗がなされる必要があるとされていた。
- イギリスでのEU市民の権利(EU加盟国でのイギリス市民の権利を含む)
- EU離脱に伴う、イギリスの支払う清算金
- イギリスとEUとの新しい「国境」となるアイルランド島の北アイルランドとアイルランド共和国との境界の取り扱い
これまでこの中でもイギリスの支払う清算金が最も難しい問題とみなされていた。メイ首相率いる保守党内の強硬離脱派が巨額の清算金の支払いに反対すると見られていたためである。しかし、この問題は、9月にメイ首相が200億ユーロ(2.7兆円)程度とみられる提案を行い、党内からそう大きな反対の声が出なかったことから、特に重要だと判断される今回のメイ首相のユンケル委員長との会談の際に大幅に増やすことを計画していたものとみられる。先週半ばからイギリスとEUとの交渉が順調に進んでおり、この清算金の額は500億ユーロ(6.7兆円)にも上るとの情報が伝わったが、その段階では、強硬離脱派も異議を唱えることが難しく、合意に対するいくつかの条件を付けるにとどまった。
離脱強硬派も、もし今の時点でメイ政権が倒れるようなことがあれば、総選挙となる可能性が高いことは十分に承知している。総選挙があれば、野党第一党の労働党が過半数を獲得し、政権に就く可能性がある。2017年6月の総選挙で、ほとんどの世論調査会社は大きく結果を読み誤ったが、最も正確だった世論会社の行った世論調査によると、支持率で労働党(45%)が保守党(37%)を大きくリードしている。メイ首相を追い詰めれば、保守党が政権を失うことにつながる。
この状況を逆手にとって、メイ首相は、大胆な清算金支払いに応じる決断をしたようだ。そして、この戦略は一定の成功を収めたようだ。ところが、これだけでは不十分だった。
アイルランドの国境問題
北アイルランドの問題は、第一次世界大戦後、アイルランドがイギリスから離れ、アイルランド自由国を設立した時にさかのぼる。カソリック以外のキリスト教信者(プロテスタント)の多くが、アイルランド島の北側の、イギリス領に属する北アイルランドに移り住んだ。そして、それまでに住んでいたカソリックの人々は差別されることとなる。これが後に、北アイルランドの南のアイルランド共和国との統一を求めるIRAなどの、いわゆる「トラブルズ」と呼ばれる3000人以上が犠牲者となる武力闘争を招く。そして1998年のグッドフライデー(ベルファスト)合意で武力闘争が終結した(ごく一部の分派の活動は続く)。この合意は、それまでの歴史的な経緯を踏まえ、プロテスタント側の、イギリスとのつながりを重視する立場と、カソリック側の立場を同等に重視し、バランスを取ったもので、イギリス政府とアイルランド政府がその後見人となるというものであった。北アイルランドとアイルランド共和国の間には、地図上の国境はあるが、国境の検問もなく、通り過ぎてから道路の標識を見て、他の国に入ったとわかるような状態である。
ところが、メイ首相が、イギリスはEUから離脱し、その関税同盟にも単一市場にも残らないとしたことから問題が複雑になった。というのは、イギリスがEUから離脱し、関税同盟にも単一市場にも残らなければ、EUとイギリスの地上での境は北アイルランドとアイルランド共和国との国境となるからである。そのため、両国の499キロにわたる国境に通関などを設ける必要があることとなると考えられた。
イギリス側は、最新のテクノロジーを利用し、自動的な物の通行ができる制度を導入しようとしたが、それではEU側、特にアイルランドの合意が得られなかった。
メイ政権は、2017年6月の総選挙で過半数を失い、DUPの支持を受けて政権を運営しているが、このプロテスタント政党は、アイルランドとの間に具体的な国境を設けることには反対だが、イギリスとのつながりを重視し、北アイルランドがイギリス本土と異なる取り扱いを受けることを受けいれない立場をとっている。メイ首相が、この立場にどの程度配慮したのかは不明だが、メイ首相の計算が誤っていたのは、EU側との基本合意がほぼできた段階で、DUPの了解が取れず、合意ができなかったことではっきりしている。
この基本合意の内容は、北アイルランドは、他に方法が見つからなければ、EUの規制に基本的に従うというものであった。つまり、関税同盟もしくは単一市場に残ることをある程度認めたものであり、イギリスの他の地域とは異なった地域となるというものであった。
北アイルランドのプロテスタント系の政党、並びにDUPの支持者らは、この提案に真っ向から反対している。もちろん経済的には、北アイルランドは、EUとイギリスの「いいとこ取り」をできる可能性があり、投資などでかなり有利になると見られるが、これらの政党にとっては政治的に大きな痛手となる。とくにDUPには、最大のライバルであるアルスター統一党(UUP)の復活を招く可能性がある。
この状況下では、メイが、アイルランドの国境問題で、これらの政党の了解を得て大きな前進を勝ち取るのは難しく、メイの離脱交渉戦略全体に大きな暗雲が立ち込めたといえる。