イギリス政府の、EU離脱後のEUとの貿易関係案のお粗末さには驚いた。この案の発表される前、タイムズ紙が、上級公務員の話として、省庁は内容を検討する時間がほとんど与えられておらず、わずか3日(通常12日)与えられたのみで、学生のエッセー提出のように切羽詰まって書き上げるようなものだと報道したが、この案は、まさに修士課程レベルの学生が慌ててまとめたようなもののように思われた。
この案では、イギリスは、単一市場と関税同盟を離脱するが、現在の関税同盟(拙稿参照)とほとんど同じ内容の新たな関税同盟をEUと合意し、通関の摩擦のない「まだ試されていない」システムを使うというものだ。それにはテクノロジーの開発も含む。そしてイギリスは、現在の関税同盟では許されていないEU以外の国と貿易交渉を進めるという。
この案に対し、EU関係者に「幻想的」だというコメントがあった。EUの交渉責任者バルニエは、まず、第一段階の交渉を進めることが先だと反応したが、経験豊富なEU側交渉責任者らは、このような非現実的な案では交渉は難しいと感じたのではないかと思われる。
そもそもイギリスは、テクノロジーの絡んだ新しいシステムを推進するのが得意ではない。例えば、2003年に始めた国境通過管理のコンピュータ化計画(いわゆるEボーダー)は、多額の費用を無駄にし、2014年に方針を転換したが、今なおあまり進捗していない。また、2010年に開始した、各種の社会福祉手当をコンピュータで統合するユニバーサル・クレジットは、今なお多くの問題を抱えている。
イギリス案は、ビジネス界などの、離脱後のEUとの関係を心配する声を配慮し、また、EUとの2段階の交渉の第一段階の3つの主要項目、①EU離脱後のイギリスに住むEU国民の権利とEU国に住むイギリス国民の権利、②アイルランド島のアイルランド共和国とイギリスの北アイルランドとの国境問題、そして、③イギリスのEU関係負担金に対する清算(いわゆる離婚料)に対応するために将来の方向性を示すことが必要だったことは理解できる。
なお、これらの項目である程度の合意ができた後、第二段階で、貿易関係を含むEUとイギリスとの将来の関係が交渉されることとなる。
ただし、イギリスの立場で特徴的なのは、現実を直視しているように見えない点だ。今年3月にEUに離脱通知をして以来、ほとんど5か月たつ。残すのは、2年間の交渉期間(これを延長するにはEU加盟国すべての同意が必要)の内、19か月余。カナダとEUとの貿易交渉で見られるように、貿易交渉には10年程度はかかることを考えれば、決して長い期間ではない。また、第一段階の交渉で進展がなければ、第二段階に進めないため、19か月は極めて短いと言える。
しかもイギリス側は、合意された内容を離脱後に実施するまでの「移行期間」の長さを自らの意思で決められると考えている節があるが、これには、イギリスとEU側が合意する必要がある。
さらに、イギリス離脱後にビジネスが不安を持つのは、EU側も同じである。すなわち、EU側も将来の関係をなるべく早くはっきりとさせる必要がある。いつまでも交渉の結果を待っているわけにはいかない。
イギリスとEUとの貿易関係に関して、イギリスからEUへは、その全輸出の44%だが、逆にEU全輸出のイギリスへの割合は8%である。EU側は、交渉が円満に進まなくとも、その8%がすべて失われるわけではない。「離婚料」などの問題でイギリスと合意ができなければ、世界貿易機関(WTO)のルールが適用され、関税などの障壁のため輸出がある程度減る、また、部品なども両者間で関税なしで送れる体制から様々な障壁のある形となり、ある程度のインパクトがあるだろう。それでも、EU側は、一定の損失を受け入れ、イギリスとの合意なしで済ませるという選択肢がある。なお、現在、ユーロ圏の経済成長率は、イギリスの2倍である。
イギリス政府の対応は、メイ政権がその方針の決定を遅らせたことに大きな原因があるように思われる。本来、方針をはっきりと決めて、準備を怠りなく進めるべきであったが、それが後手に回った。方針を慎重に見極めることなく、時間に押されてEUに離脱通知をし、また、時間に追われて方針の決定に迫られている。第二次世界大戦以来、最も重要な国際交渉だと言われながら、その準備ができていなかった。政治の大きな失敗と言える。