メイ首相の苦しみは続く

イギリスの通貨ポンドの価値が下がってきている。これは、イギリスがEUを将来関係の合意なしに離脱する可能性が高まってきていることに関連している。フォックス国際貿易相が、EU側の非妥協的な態度のため、合意のできない可能性とできる可能性は、6040だと発言したが、その前にも、英国の中央銀行であるイングランド銀行総裁が、合意のない可能性は不快なほど高いと発言した。

 ポンドの価値が下がってきているのは、サッカー界にも絵響が出ていると言われる。イギリスのトップリーグのプレミアリーグのトッテナムは、2003年に夏の移籍期間が始まって以来、プレミアリーグで初めてこの期間中に誰も獲得しなかった。監督は、弱いポンドで新競技場の建設費が大きく増加したことをその一つの理由に挙げた。

 イギリスの失業率は4%と1975年以来という低さだが、賃金上昇の伸びは鈍い。ブレクシット交渉で企業に投資を控える傾向がある一方、EUから特にA8(チェコ、エストニア、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、ポーランド、スロバキア、スロベニア)と呼ばれる東欧諸国からの労働者が減ってきている。

 メイ首相が7月にEUに提案した「促進通関制度(Facilitated Customs Arrangement)」に対して、EUのバーニエ交渉代表は、EUの単一市場の整合性(Integrity)を損なうものは受け入れられないという立場を表明している。この制度自体に実際に実施できるものかどうか大きな疑問がある上、メイ首相の率いる保守党の離脱派には、メイ首相の提案の中の「共通ルールブック」は、EUのルールを基本的に受け入れるものであり、これではほかの国と貿易協定を結べないと批判的だ。

一方、政治的には、有権者のブレクシットに関する考え方が変化しているという分析がある。特に労働党の強いイングランド北部やウェールズでその傾向が強く出ているという。632選挙区のうち(下院の全650議席から独特な地域の北アイルランド18議席を差し引いたもの)、かつてEU残留派の多い選挙区が離脱派の多い選挙区に対して229403であったのが、今では341288(と互角3)となっているというのだ。 

イギリスとEUとの離脱条約交渉は既に8割合意しているといわれるが、最も大きな問題は、北アイルランドと南のアイルランド共和国(EUメンバー)の国境問題である。昨年12月にはイギリス側とEU側が国境設備を設けないことで合意し、具体的な対応策で合意できない場合には「バックストップ(野球場のホームベース後ろのフェンスのことで、ボールが後ろに飛んでいくのを止めるもの)」を設けることとした。EU側は、その場合、合意できる対応策が見つかるまでイギリスの北アイルランドがEUの関税同盟と単一市場の一定のルールに従うことを求めたが、イギリス側は、それでは事実上アイルランド島(北アイルランドとアイルランド共和国)とグレートブリテン島(イングランド、スコットランド、ウェールズ)の間に国境を設けることとなるとして受け入れられないという立場だ。そのために「促進通関制度」を提案しているが、それが現状の形で受け入れられる状況にはない。

メイ首相は、EU側と何らかの合意をし、来年3月のEU離脱以後予定されている「移行期間」まで持ち込み、そこで対応策に取り組みたいと考えているのではないかと思われる。しかし、EU側は、全体的な合意ができなければ「移行期間」もないという立場だ。このままでは、イギリス側から新しい案が出てくる可能性は乏しく、EU側が、何らかの妥協策を出してくるしか方法はないように思われる。事実上、816日から再開する交渉でもイギリス側がEUに嘆願する状況だ。ただし、そのような妥協策がもし出てくるとしても、それは、EU側がイギリスの政治状況を十分に把握した上でのこととなると思われる。下院は94日に再開するが、メイ首相が国内政治的に生き延びれるかがカギとなるだろう。

ブレクシット白書後続く混迷

下院で過半数を持たないため、10議席を持つ、北アイルランドの民主統一党(DUP)の閣外協力に頼っているメイ首相の政権運営はただでさえ困難だ。そして率いる保守党内の強硬離脱派とソフト離脱派の対立のため、ほとんど不可能に近い状態になっている。

それでもメイ首相は、政権としてのブレクシット後の立場を首相別邸の会議でまとめ、白書として発表した。この過程で、ブレクシット担当相と外相らが辞任した。その白書へEUがどのように反応するか注目されていたが、EUの交渉責任者のバーニエの反応が出た。

バーニエは、この白書には、前向きな面があるものの、この白書を基には交渉しないとした。もちろんバーニエの立場には難しいものがある。メイ政権がどれほどの期間持ちこたえられるか、メイがどれほど譲歩できるか、それにEU側の残された27ケ国の思惑もある。状況が大きく変化しない限り、来年3月29日にイギリスはEUを離れる。「すべてが合意しなければ何の合意もない」の原則があり、既に合意しているイギリス離脱後の「移行期間」も「すべてが合意しなければ」吹き飛んでしまう。3月29日までに合意ができればよいのではなく、イギリス議会や欧州議会の承認が必要であり、それを考えれば、今秋までには合意ができていなければならない。とにかく時間がなくなってきている。

メイ首相は、首の皮一枚で首相の座にあると言っても過言ではない。首相別邸での合意は、有権者への受けが悪く、保守党は、労働党に世論調査の支持率で5%の差をつけられている。メイ首相への支持率も下がる一方だ。このような中、保守党下院議員の中には、メイに不信任を突きつけると、メイが総選挙に打って出ると恐れる声がある。そのような総選挙へのきっかけを作る動きはしたくないという心理がある。

一方、メイ首相にはこの白書以上の譲歩は難しい。このような白書は、本来、交渉時間がなくなってきてから出すものではなく、交渉初期、もしくは交渉が始まる前に出されておくべきものだ。しかも、この白書自体、強硬離脱派とソフト離脱派の間のわずかな隙間を縫って構築されたものであり、このポジションから動くことが難しい。

それでも、もし合意なしでイギリスがEUを離れることとなれば、イギリスだけではなく、EUへの経済的な悪影響も大きい。イギリスでのEU国民の地位の問題(そしてその逆)もある。その一方、イギリスに有利な離脱条件を認めれば、EU内で他の加盟国の離脱を促進することにもなりかねず、慎重な対応が要求される。

このメイ首相がどの程度の期間、首相の座にあるのかによって、イギリス政府の対応だけではなく、EU側の対応も異なってくるだろう。来週、下院は夏休みに入る。9月4日に再開するが、それまでに保守党党首の不信任案投票を実施するのに必要な、保守党下院議員の15%を満たす、48人の下院議員の要求が集まるという見方がある上、ブレクシット関連法案で防戦一方のメイ政権の頼りとするDUPの一下院議員が数週間、登院禁止処分を受けると見られており、メイ首相がさらに苦しむこととなるだろう。

もし万一メイが保守党党首交代を迫られれば、新しい党首選出には3か月かかるとの見方もあり、EUとの交渉が宙に浮く可能性がある。また、野党の労働党は、急な総選挙が行われ、政権についた場合の対応について検討を始めている。

アイルランドでイギリスの北アイルランドと国境をともにするアイルランド共和国(EUメンバー)は、国境管理に関するスタッフを千人採用することを決めたが、EUが加盟メンバー国や、業界、企業に、「合意なし」の場合の準備を進めるよう警告するのも当然の状況だ。

メイ首相は、下院の夏休みを5日早く始めようとしたほど切羽詰まっている。メイ首相の去就をめぐる動きを中心に、イギリスのブレクシットに関する混迷は、まだ続く。