政治的リーダーシップ:クレッグ自民党党首・副首相(Political leadership: Lib Democrat Clegg)

連立政権を下院第一党の保守党と組む自由民主党の党大会が17日始まった。自民党の党首ニック・クレッグは連立政権の副首相として政府の政策決定に一定の影響を及ぼしており、保守党議員からその影響が強すぎると批判されているくらいだ。しかし、有権者にはそれがあまり理解されていない。クレッグのこれまでのリーダーシップを見てみよう。

2010年5月の総選挙前の主要三党首テレビ討論でクレッグは大きな人気を博し、「クレッグマニア」という言葉が生まれるくらいのブームが起こったが、予想に反して自民党は62議席から57議席へと5議席減らした。保守党が最も多くの議席を獲得したが、過半数を獲得できず、少数政権の樹立やむなしという状況となった。自民党は労働党の左だと一般に考えられており、保守党との連立は考えられないという見方が強かったからだ。一方では、労働党と自民党が連携しても過半数に足らず、そのほかの小さな政党らの協力が必要で、もしこれらの2,3位連合プラス小政党の政権ができたとしても不安定だと考えられた。

その中、保守党は、少数政権では短期政権になるのは確実であり、しかもその結果、保守党の政権運営能力に大きな疑問符がつくという判断から、自民党との連携を模索した。特に、「あの不人気のブラウン」を党首に抱える労働党を抑えて過半数を獲得できなかったのは、党首キャメロンの責任だという声が保守党内から出てきており、キャメロンの中長期的な党首としての地位も危ぶまれる状況で、キャメロンは自民党との連携を最優先としたのである。一方、クレッグは、ブラウンと手を結ぶことは総選挙中から否定的で、しかもブラウン抜きでも労働党との連携には消極的であった。クレッグは、経済的リベラルであり、自由貿易と小さな政府を信じる人物で、ブラウンや労働党よりもキャメロンとの間に考え方に類似点が多かった。クレッグとキャメロンは2人とも同じ年齢で、しかも裕福な家庭で育ち、日本とは比べ物にならないぐらい授業料の高い私立学校を経て、キャメロンはオックスフォード大学、クレッグはケンブリッジ大学を出たという条件もあった。

総選挙直後、クレッグがキャメロンと会った後、キャメロンとなら一緒に政府で働けると判断し、保守党との連立政権の樹立に踏み切った。キャメロンは、かつて財相、内相のスペシャルアドバイザーとして政府内で働いた経験があったが、基本的には大臣・首相として新人であり、是非クレッグを口説き落としたいと低姿勢だった。これは、大臣・首相として経験豊富だと自負するブラウンらの見下すような対応とは好対照であった。クレッグには自分の能力を政府で試してみたいということもあったと思われる。英国官僚トップの内閣書記官(日本の官僚のトップである内閣官房副長官よりもかなり強力なポジション)から「不安定な政権では英国の株式市場が崩れる」との警告を連立政権に参画するための理由に使った。

クレッグは党首として議席を減らしたが、総選挙中の人気の余韻が残っていた。連立合意の報に当初ショックを受けた自民党員も多かったが、党内の了承を得た。しかし、連立政権に参画後、自民党の支持率は急落したのである。総選挙で自民党は23%の得票率を得たが、今や自民党の支持率は10%前後である。過去20年で最悪の支持率を記録しており、今年5月の地方選挙でも大きく議席を減らした。

クレッグは、EUの欧州委員会で、サッチャー保守党政権で財相を務めたレオン・ブリトン委員の下で働いていた。ブリトンから認められ、保守党から下院議員に立候補するよう勧められたが、かつての保守党首相サッチャーを嫌っていたクレッグはそれを断った。そこでブリトンが自民党の元党首パディ・アッシュダウンに紹介し、アッシュダウンに政治家として育てられたのである。そして欧州議会議員1期を経て、下院議員に2005年に当選し、2007年に自民党党首として選ばれる。議員歴は短いが、アッシュダウンの後押しを受けていたことは、クレッグには大きい。2010年総選挙後、保守党との連立政権樹立で、クレッグがアッシュダウンと逐次連絡し、指導を受けていたことは間違いない。この期間、アッシュダウンがBBCから総選挙後の自民党の動きについて質問され、あまり知らないというような発言をしたが、これは煙幕だったと思われる。アッシュダウンの介入なしに、二人の直前党首、チャールズ・ケネディとメンジー・キャンベルをバイパスして連立政権の話を進めることは困難だっただろう。この連立政権参加のクレッグの決断は、1997年のブレア労働党があまりにも大勝したため、アッシュダウン率いる自民党の労働党との連立構想がご和算になったことにも関係しているだろう。ただし、この決断は、クレッグのものだ。アッシュダウンの下で、広報担当を務めた女性が「新しい人のすることはわからない」と発言したが、クレッグ以外が党首では、これまでの党同士の関係から、連立が成立するようなことは極めて難しかっただろうと思われる。問題は、自民党経験の比較的少ないクレッグのこの決断で、自民党の支持率が大幅に下がってしまったことだ。結局、クレッグは、政治家として英国の有権者を十分に理解していなかったということだ

キャメロン首相の限界 Cameron – just spin, spin and spin

ロンドンから始まり、英国各地に瞬く間に広まった暴動は、警察が強硬な対処法を取り始めた途端、急速に止まった。マスコミがこぞってCCTVなどの映像を発表し、容疑者の顔写真を公表し、容疑者が次から次に警察に逮捕されるのを見て、一般の人々は胸をなでおろし、暴動を始める準備のあった者は考えを変えたようだ。暴動を起こしても、自分が痛い目に遭うとは思ってもいなかった者たちが、今回は違うと気が付いたようだった。

イタリアのトスカニーで休暇中だったキャメロン首相は、休暇を途中で切り上げ、ロンドンに帰り、コブラと呼ばれる緊急事態対応会議を開いた。その日からロンドン警視庁などが警官の大動員をかけ、警官の休養日と休暇をキャンセルし、それまでの6千人から1万6千人に増員した。警官がロンドンの商店街など暴動の標的になりそうな場所にはあふれ、多くの商店やパブ、バーなどが店を早く締めた。店の中には、木製のボードで外回りを完全に覆い、自己防衛するものもかなり出た。その結果、ロンドンでは直ちに暴動騒ぎは収まり、それ以外の地域でもその翌日には収まった。

この結果を見て、キャメロン首相は、自分が「勝利」をもたらしたかのような発言をした。キャメロン首相にとっての誤算は、警察側が直ちにそれに反駁したことだ。事態を鎮静化させた手段は、すべて警察が判断して実施したものであり、首相は、直接指示したり、警官の休養日や休暇をキャンセルしたりする権限はない、と言ったのだ。国民の多くは、首相にどういう権限があり、首相と警察との関係を知らなかった。結局、警察側の剣幕に驚いたキャメロン首相は、翌日には、警察官の勇気を称えるなど大幅にトーンダウンした。

キャメロン首相は、もともと広報マンで、見栄えの良い、聞こえのよい話を好む傾向がある。自分にプラスになると思われるチャンスは見逃さない。問題は、それが行き過ぎると、かえって逆効果になることだ。本来、責任は自分が取り、手柄は警察に与えるという態度が本当のリーダーである。「広報マン」首相キャメロンの限界である。