英国のEU離脱交渉の失敗から学べる事

英国のEU離脱交渉でEU側の交渉責任者である「チーフネゴシエーター」だったミシェル・バルニエの「私の秘密のブレクジット日記」が出版された。この日記の書評をもとに、英国側の交渉の問題点を見てみたい。なお、この書評は、英国のブレア首相のチーフオブスタッフ(首席補佐官)だったジョナサン・パウルによるものである。パウルは、イギリスの北アイルランドの平和をもたらした1998年のベルファスト(グッドフライデー)合意の舞台裏で交渉を取り仕切った人物で、北アイルランド議会が2007年に再開するまで北アイルランド問題に尽力した人物である。「北アイルランドの平和プロセスのチーフネゴシエーター」とも表現される。それ以降も世界中の紛争の調停者として活動している。

EU側は、終始一貫して、英国がEUにメンバーとして残ることを希望していた。交渉がどうなろうとも、EUの主力メンバーである英国が離脱することは大きな打撃である。パウルは、EU側が英国のEU離脱交渉で勝ち、英国は、欠陥のある離脱協定と不利な将来関係を背負ったとするが、より大きな観点では、この交渉では勝利者はいないとする。

パウルは、EU側がこの離脱交渉で成功した理由と英国側の失敗した理由を以下のように5つ挙げる。

1.EU側は、プロフェッショナルできちんと準備をしたが、英国側はそうではなかった。バルニエは、最初から交渉の着地点を想定し、交渉が始まる前に自由貿易協定の完全な法律文書を用意していた。

2.EU側27か国が結束した。バルニエを通さず、英国は個別の国と話をしようとしたが、バルニエと話すように言われた。

3.EU側は、この交渉で求めているものを知っており、それを貫き通した。一方、英国側は独りよがりな交渉に終始した。そのため、EU側が主導権を握り、議題を決め、思うように交渉を進めたという。

4.英国側のジョンソン首相は、EU側が動揺することを狙ってEU側を怒らせようとしたが、EU側は冷静に受け止めた。

5.EU側は、「最終期限」を効果的に使った。ジョンソン首相の前任者メイ首相は、その目的がはっきりしないまま、リスボン条約50条で定められた2年間の期間制限を開始させてしまった。

2016年に英国で行われた、EUから離脱するかどうかの国民投票で、英国民は離脱を選択した。なお、国民投票は、英国ではほとんど行われない。英国は、議会主権(日本は国民主権)であり、議会が決めることになっているからである。また、英国の下院(上院は公選ではない)は完全小選挙区制であり、一つの政党が比較的多数を占めやすいことから、総選挙で代表者が選ばれ、下院議員が総体として決定すれば足りるという考え方があった。そのため、これまで行われた全国的な国民投票は、1975年のEEC国民投票、2011年の選挙制度改革国民投票、そして2016年のEU離脱国民投票の3回である。この3番目の国民投票は、当時の保守党のキャメロン首相が、党内のEU離脱派を抑えるために実施したが、キャメロンは、EU離脱賛成票が多数を占めることになるとは考えていなかった。そしてキャメロンは首相を辞任する。準備が整っていなかった上、EU側を見くびっていたことが、交渉をより難しくしたと言える。

EUの慎重なブレクジット戦略

イギリスのボリス・ジョンソン首相は、EUとの離脱合意ができるかどうかにかかわらず、10月31日にEUを離脱するという立場を崩していない。これに対して、EUは巧妙で慎重な戦略にでてきた。

10月11日のイギリスの新聞の多くは、10月10日のジョンソンとアイルランド首相との会談で10月31日までにイギリスとEUとの合意のできる可能性が出てきたとする。(例えば、https://twitter.com/hendopolis/status/1182405405227520000/photo/1

しかしながら、EU側とジョンソン側との考えの違いは大きすぎ、そう簡単に埋められるものではない。特に以下の2点である。

①    ジョンソンは、イギリスがEU離脱後、自由にそれ以外の国と貿易交渉できるよう、EUと関税同盟を結ばない方針だ。EUとイギリスとの「国境」となる、アイルランド島内の北アイルランド(イギリス領)とアイルランド共和国(EU加盟国)との間には、現在何らの国境施設はなく、自由通行だが、イギリスのEU離脱後、モノの移動や基準を監視し、必要な関税を課するには、それを可能にする施設やシステムが必要である。ジョンソンは、テクノロジーを使った解決法を提示しているが、すぐ使えるものではなく、専門家はシステム構築を含めて最低10年はかかるという。つまり、EUがそのようなものを直ちに受け入れるとは思われない。

②    上記のような解決法を、すでに合意している暫定期間(離脱後2020年末まで)後、適用するかどうか、そして4年ごとにさらに継続していくかどうかについて、ジョンソンが閣外協力をしている民主統一党(DUP)に事実上、拒否権を与えていることだ。北アイルランドは、30余年の長い「トラブルズ」と呼ばれる域内闘争があり、その再来を防ぐような、ユニオニスト側(イギリスとの関係を継続したい立場で、DUPを含む)とナショナリスト側(アイルランドとの関係を重んじる立場)との両者が合意しなければ意思決定が極めて難しい制度を設けているためである。

ジョンソンは、第2点目を譲歩することができるかもしれないが、第1点目の譲歩は極めて難しい。この譲歩は、イギリスの自由な貿易交渉を制限することにつながり、ジョンソンが描いているような、大胆な国際貿易交渉をできるようなイギリスとはなれない可能性が高いからだ。

9月に成立した「ベン法」で、10月19日までにEUとの離脱合意ができる、若しくは、議会の納得する結果が得られなければ、ジョンソンは、EU側に10月31日までの交渉期間の延長を求めねばならないこととなっている。しかし、ジョンソンは、10月31日に離脱するという立場を崩していない。延長を避けるためにジョンソンの打てる手はないと見られているが、ジョンソン内閣が下院で不信任されても、ジョンソンは慣例を無視して首相官邸に居座るなどという情報が流されるなど、不測の事態が起きる可能性が指摘されている。

ジョンソンは、多くのコメンテーターも指摘するように、行き詰まった段階、もしくは最も自分に有利だと思われるタイミングで総選挙に打って出るつもりだろう。つまり、10月31日に離脱できるかどうかにかかわらず、「2016年の国民投票でEU離脱を支持した国民の意思を貫くジョンソン政権」と「その意思に背く議会」の対立構図を最大限に効果的に利用し、次期総選挙では、ブレクジット党の票も吸収して過半数を占めることが目的である。ジョンソン率いる保守党には、DUPを入れても過半数がない。もしEUとの交渉期間が延長されても、過半数を取れば、ジョンソン政権が強化され、EUとの交渉を有利に進められるとの考えがあろう。

なお、野党は、数的には、ジョンソンらの政権側を上回る。すなわち、数的にはジョンソン政権をいつでも倒せる。ところが、ジョンソン後に誰を首班とするかでまとまらない。一方、首相が総選挙の日を決められるため、ジョンソン政権を倒せば、ジョンソンが勝手に総選挙の日を10月31日離脱が可能な日に設定しかねないという恐れがある。そのため、ジョンソンを首相から除くことができないというジレンマにある。

このようなジョンソン政権の状況に対して、EU側は、3つの状況に対して準備を進める必要がある。まず、総選挙が実施され、ジョンソン保守党が過半数を占める場合だ。その場合には、さらに慎重に交渉をしていかねばならない。次に総選挙の結果、再び過半数を占める政党のない「宙づりの議会」となる可能性がある。その場合、連立、若しくは少数与党政権となり、政情は不安定、そして次の総選挙が早期に行われる可能性がある。そしてジョンソン保守党が再び復活するかもしれない。そして、3番目に、ジョンソンが無理に10月31日にEU離脱してしまう可能性だ。

EUは、その経済に与える影響を考えると、イギリスに合意なしで離脱をしてもらいたくない。一方、ジョンソンら離脱派に、EUのかたくなさのためにイギリスは合意なしで離脱したという理由を与えたくない。EU側は、EUの経済的統合を揺るがしかねないイギリスの要求を絶対に受け入れられないが、ジョンソンの現在の要求は、まさしくこれに触れる。それでも今後のシナリオを考えると、ジョンソンらに希望を与え続けておく必要があり、アイルランド首相は、まさしくそれをしていると言えるだろう。