生活賃金を義務付けた財相

2015年総選挙のマニフェストで、保守党は、財政赤字を削減する一環として、福祉予算を削減するとした。その詳細は、7月8日の緊急予算で明らかにされたが、その中には、低賃金や貧困家庭の人たちの生活を助けるためのタックス・クレジットの制限・凍結が含まれている。

タックス・クレジットは、負の所得税とも言われる。この制度は、ブレア労働党政権のブラウン財相が、貧困家庭を無くすための手段として特に力を入れ、2003年に導入した。貧困家庭対策には確かに役に立ったが、弊害が生まれている。低所得者がこの制度に頼る傾向が出てきていること、さらに、使用者もこの制度に依存し、勤労者に低賃金を支払っても、タックス・クレジットで補われるという状況が生まれてきていることである。

また、勤労者にとっては、必要最低限以上の時間働くと、給付にマイナスに働き、働く価値が乏しくなるという問題がある。例えば、1人親家族の場合、最低週16時間、1人暮らしの場合、最低週30時間という具合である。

このため、財政削減の必要と、勤労者や使用者の依存に歯止めをかけるために、キャメロン首相は新しい方策を提唱した。つまり、福祉依存を減らし、賃金を上げるというものである。イギリスは生産性が低いが、これを改善するためにも、賃金を上げ、使用者に効率を上げるインセンティブを与える目的もある。

これは言うは易く、行うは難しいという部類に入る。しかし、キャメロン政権では、オズボーン財相が、7月8日の予算発表で、全国的に生活賃金を導入することを発表した。

イギリスの最低賃金は現在、時間当たり、6.50ポンド(1235円:£1=190円)である。これは法定である。それ以外に基本的な生活が営める生活賃金が設定されている(拙稿参照)が、これは、全国で7.85ポンド(1492円)、ロンドンで9.15ポンド(1739円)で、任意のものである。

キャメロン首相の戦略アドバイザーだったスティーブ・ヒルトンは、大手企業、例えば大手スーパーのテスコが従業員に低賃金を支払い、それを補うために政府がタックス・クレジットを支給しているのは、おかしいと指摘した。テスコが生活賃金を支払わないのは、企業がそれだけの利潤を得ていないためではなく、そのように選択しているからだという。生活賃金の支払いを義務化すべきだとした。

確かにヒルトンの言い分は正しい。ただし、使用者に生活賃金の支払いを実施させるにはどうすればよいかという問題がある。野党の労働党は、総選挙のマニフェストで、2019年までに最低賃金を8ポンド(1520円)に上げることを挙げていた。労働党は、ヒルトンの主張に賛成したが、生活賃金を支払う使用者には税控除を提案した。

しかし、オズボーン財相の発表は、これらを上回るもので、新たに「全国生活賃金」を義務付け、2020年までに25歳以上の人の時給を9ポンド(1710円)にするというものである。そして来年の4月からは、時給が7.20ポンド(1368円)となる。

財務省は、「全国生活賃金」の導入で、270万人の賃金が上がり、その波及効果で325万人の賃金が上がると見ている。週に35時間、最低賃金で働いている人は、2020年までに、賃金が3分の1上がり、年に5020ポンド(95万3800円)収入がアップするという。

この「全国生活賃金」は、現在の「低賃金委員会(Low Pay Commission)」が今後、勧告する予定で、賃金のメジアン(中央値)の60%とするという。

一方、雇用に与える「全国生活賃金」の導入の影響は、2020年までに6万人の雇用減と見ているが、2020年までには雇用が全体で110万増加すると見ており、その影響は少ない。企業の利益には1%減の影響があると見ている。その結果、政府の税収入に若干の影響が出る見込みだ。

オズボーン財相は、また、雇用の増加に力を入れ、また、この2015年4月に20%となった法人税を、2020年までに18%とすると発表した。

「全国生活賃金」には、懐疑的な見方もあるが、オズボーン財相が発表した時、下院の端で、立って聞いていた、労働年金相のイアン・ダンカン=スミスが、両手のこぶしを振り上げて、喜びをあらわにした。保守党の党首の座を引きずり落とされた後、貧困の問題に取り組むため、社会正義センターを設立した人物である。その気持ちが伝わってきた。これが政治であると感じた。