期待のコントロール

仏教の創始者である仏陀は、人の苦しみは、期待と現実との間に差があることから生まれると説いた。つまり、現実が期待したようにならない場合、人はがっかりする。それは、政治でも同じことで、政治家が約束したことを実現できない場合、政治家が期待に反して業績をあげられない場合など、有権者はがっかりする。

そこで政治家が行うのは、期待のコントロールである。つまり、有権者やメディアの期待をコントロールすることで、政治家への見方をコントロールしようとするのである。

期待よりよい結果が生まれる場合もある。2015年5月のイギリスの総選挙で、保守党が予想に反して単独で過半数を獲得し、政権に留まった。保守党が単独過半数を獲得するとは、内部でも考えられていなかった。そのため、投票が終了するや否や、BBCが投票所の外で行った出口調査の結果を発表すると、誰もが信じられない、結果をもう少し見てみなければと発言した。この出口調査は1万人以上の有権者にあたった上での結果で、2005年、2010年とその結果がおおむね正確であることが実証されていたのにもかかわらずであった。結局、出口調査通りの結果となる。キャメロン首相の参謀オズボーン財相が、事前に、もし保守党が過半数を獲得するようなことになれば、選挙参謀のクロスビーにフレンチキスすると言ったと伝えられる。結局、頬にキスをすることで落着し、それが報道されたほどだ。

保守党が過半数を獲得するとは考えられていなかったために、保守党が過半数をわずかに上回ったにすぎないのに、メディアは保守党が大勝したような報道をした。有権者も、2010年に引き続き、どの政党も過半数を占めることのない、ハングパーラメント(宙づりの議会)となり、政党間の連立交渉で、しばらくは不安定な状態が続くと思っていたのに、一挙に肩の荷が下りたかのような気がした。この場合には、保守党が期待のコントロールを図ったとは思えないが、それでも、現実が期待を大きく上回ったために、キャメロン首相は、大きく称えられることとなった。

一方、2015年12月の補欠選挙で、労働党候補者が大勝した場合である。この補欠選挙は、労働党のベテラン下院議員が過去45年間議席を維持してきた選挙区で、5月の総選挙でも大勝した選挙区である。それでも、イギリス独立党(UKIP)が大きく支持を伸ばしており、労働党の新党首コービンの評価があまり高くないことから、もしかすると、労働党が議席を失うかもしれないという見方があった。最終盤には、労働党は勝つだろうが、次点のUKIPとの差が大きく縮まり、数百票程度の僅差となるかもしれないという見方があった。

ここでは、労働党が期待のコントロールを図ったと思われる。つまり、UKIPとの差が数百票となるという見方が強くなると、労働党が大きく票を失ったとしても、思ったほど悪くなかったと評価されるからである。つまり、コービンへの打撃を小さくできることとなる。実際には、労働党は、得票率を55%から62%に上げ、大勝の結果となった。次点のUKIPは、負けっぷりが悪く、郵便投票に不正があったとほのめかし、第3位の保守党は、5月の総選挙時の得票率を半減させた。

この場合、期待のコントロールは、そう大きな役割を果たさず、コービンは無傷に終わったが、メディアは、この結果の理由付けをしようと躍起になり、労働党の候補者が地元の地方議会のリーダーで、地元によく知られていたからだと説明しようとした。

いずれにしても、期待と現実の差を少なくすることは、政治家へのダメージを少なくするうえで、意味がある。これは、EU国民投票の関係で、キャメロン首相らが明らかに試みているもののように思われる。ただし、キャメロン首相は、EU国民投票を2017年末までに実施すると発表した時、EU加盟国と交渉して、イギリスの主権を大幅に取り戻した上で実施すると約束した。問題は、その交渉が思ったように行っていない点だ。その交渉は難航している。キャメロン首相は、それに真っ向から取り組んでいるとのイメージを与えようとしており、また有権者に前向きのメッセージを送ろうとしている。それがどの程度、有権者の期待をコントロールすることにつながるか、見ものである。

EU国民投票の行方とキャメロン首相の手腕

11月11日、キャメロン首相は、EUに4つの主な要求を提出した。しかし、保守党の欧州懐疑派(EUとの関係を強く批判している人たち)の反応は、「それだけ?」だった。この中でも、有権者の最も関心の強いのは、EU内の移民の問題である。2015年5月の総選挙で、キャメロン首相は、EUの他の加盟国からの外国人は、イギリスの福祉手当を4年間受けられないようにすると約束した。これがEU内で承諾されることは相当難しい。EU内の移民を差別しないとする原則に反するからである。特にポーランドをはじめとする東欧諸国が強く反発している。もし万一、期間の短縮などで合意ができたとしても、その目的である移民を減らす効果は、実際にはあまりないと見られている。

そのため、EUとイギリスとの関係を大幅に見直し、交渉してイギリスに主権を取り戻し、その上でEUに留まるか、脱退するかの国民投票を2017年末までに行うとしたキャメロン首相は、苦しい立場になっている。

キャメロン首相は、この国民投票を保守党内の圧力をそらすために約束したが、このような国民投票には、ギャンブルの要素がある。1975年のEU国民投票は、ウィルソン労働党政権下、その前のヒース保守党政権で加入したEUの問題を巡る党内の対立の決着をつけるために行われた。そしてウィルソン首相は、保守党と協力して残留運動を強力に行った。EU離脱派の10倍のお金を使ったと言われる。しかし、キャメロン政権下での国民投票では、残留派、離脱派の両方ともキャンペーン費用の上限が定められている。キャメロン首相の在職時の業績の「政治的遺産」に直接結びつく問題であるだけに、キャメロン首相は、何とか事態を打開しようとしている。12月17日、18日に行われるEU加盟国28か国の首脳会議で話をまとめようと、これまでキャメロン首相が関係国を訪問し、一対一のトップ会談で話を進めようとしたが、余り成果は上がっていないと伝えられる。

もちろん、これには、国民、メディアの期待をコントロールしている可能性がある。期待をなるべく低く抑えることで、成果を強調しようとしているのかもしれない。つまり、キャメロン首相に秘策、もしくは明らかになっていない各国首脳との個人的な約束がある可能性はあるが、いずれにしてもキャメロン首相が達成できることは、多くの人の期待を大きく下回ることは確実な情勢だ。

その中、世論調査で、EU脱退への支持が増加し、残留への支持と均衡していると報道された。もちろん、国民に対して、首相がEU離脱を勧めるか、残留を勧めるかで、有権者の判断がかなり影響されるが、このままでは、EU残留への積極的な理由が見つけられないまま、事態が進む可能性もある。

さらに、EU国民投票の行われる際の政治環境にもよるだろう。11月13日のパリ同時多発テロ事件の後、イギリスの世論は、離脱へ大きく揺れた。もし同じような事件が、例えばロンドンで国民投票の直前にあるようなら、その与える影響はかなり大きなものがあるだろう。

いずれにしても、自分で蒔いた種とはいえ、この状態をいかに乗り切ることができるか、キャメロン首相の手腕が問われる。