公職に就く人の倫理(Ethics in high offices)

猪瀬直樹氏が「政治家としてアマチュアだった」と発言して都知事を辞職した。この言葉を政治の世界をよく知らなかったため失敗したと解釈している人が多いようだが、これは必ずしも正しいとは思われない。

まず、猪瀬氏の行政手腕に大きな問題があったのだろうか。当面大きな政治課題は2020年東京オリンピックを成功させるための準備であり、与党の自民党や公明党らの支持で、特に政治手腕の必要とされる状況にあったとは思えない。

一番大きな問題、すなわち失敗は徳洲会から5千万円を受け取ったことである。この問題で「アマチュア」だったと言うのは、受け取り方を誤ったということだろうか?政治のアマチュアであろうがプロであろうが、このお金の受け取りが何らかの疑念を招く可能性は十分に理解できたはずだ。

公職に立つ人の倫理は、英国では基本的に二つ原則があるように思われる。まずは、もちろんそのような行為をしないことである。そしてもう一つは、そのような行為をしたと疑われそうなことをしないことである。

英国ではジャーナリストらによる政治家へのおとり取材がよく行われている。通常ビジネスマンに扮したジャーナリストが金銭的な対価を提示して政治家に特定の利益のために働くようもちかけ、その始終をビデオ映像などで記録するという手段を使う。そのようなおとり取材は倫理的に疑わしいが、英国では一般に必要悪として受け止められており、公共放送のBBCでも番組パノラマでよく行っている。このようなおとり取材では、政治家に問題発言をさせようと故意に仕掛けてくるために、その対策は困難だ。しかし、基本は、そもそもそのような行為をしたと疑われるようなことをしないことである。

2009年の議員の経費乱用問題でも槍玉に上がり、また、おとり取材でも引っかかったある労働党元下院議員は精神健康上の問題で収監を免れたが、そのような状況にまで自らを追い詰めるほどのことをするだけのメリットがあったのかどうかという議論はあるだろう。しかし、問題はそのようなリスクの査定ではない。

英国でも特徴的なのは、議員経費制度の問題を挙げると、制度が設けられた当初は誰もがその制度の使用に慎重だったが、それが次第にルーズになり、濫用される状態が生まれてきたことだ。つまり、制度を設ければそれでよいというものではなく、最も基本的で、最も重要なのは、それぞれの人の倫理観であるといえる。英国でも日本でも公職に就く人は公職の意味を十分に吟味する必要があるのではないか。

猪瀬都知事とブラウン前首相(Governor Inose and ex-PM Brown)

日本では猪瀬直樹東京都知事が徳洲会から5千万円受け取っていたことが発覚し、政治の世界での倫理が改めて問われている。一方、英国のゴードン・ブラウン前首相の生き方はそれとはかなり異なっているようだ。

南アフリカのネルソン・マンデラ大統領が亡くなり、英国の議会でも追悼のスピーチが行われた。下院ではキャメロン首相をはじめ多くの政治家がスピーチを行ったが、それらの中でも群を抜いていたのはブラウン前首相であった。

ブラウンのマンデラ追悼スピーチは、マンデラ元大統領と直接何度も話をした経験を含んだ、ウィットに富んだものだった。ブラウンはマンデラを自分の父のように慕い、敬意を払っていたという。

ブラウンが2007年に出版した「勇気(Courage)」で書いた8人の中にマンデラが入っている。ブラウンの長女は生まれた直後に亡くなったが、その次の長男が生まれた日にマンデラからお祝いの電話をもらって感激した経験にも触れている。ブラウンがこの本で取り上げたのは、より崇高なもののために自分を犠牲にする勇気のあった人たちである。ブラウンも自らそうする意思があったのは明らかだ。

ブラウンは2007年6月から2010年5月まで首相を務めたが、首相としては多くの欠点があった。2010年総選挙で敗れた後、労働党の党首を辞したが、現在も下院議員である。あまり下院に姿を見せない、発言しないという批判があるが、1997年の総選挙で敗れた保守党のメージャー元首相もそうだった。それでも恵まれない人たちのために尽くしたという思いは今も強く持ち続けている。マンデラも貧しい子供たちの問題に力を入れていたが、ブラウンは、現在、世界の教育に関する国連特使として世界中を飛び回っている。

ブラウンの前任で同じ労働党首相であったトニー・ブレアや多くの元首相がかなり贅沢な生活をしている傾向があるのに対し、ブラウンはそうではないようだ。スコットランドの自宅は台所とバスルームに手が入っていると言われるものの、その他はブラウンの独身時代のみすぼらしいままだという。

ブラウンの講演料はブレアの半分か3分の1程度と言われるが、それでも2012年度には講演や執筆などで137万ポンド(約2億3千万円:£1=168円)稼いだ(参照)。そのお金は自分のポケットに入れず、すべてブラウン夫妻の事務所に入っており、ブラウンの活動を支えるための事務所費やスタッフの人件費、それにそこから91万ポンド余り(1億5千万円余り)を慈善事業に寄付している。

妻のセーラは、もともと良く知られたPR会社の共同設立者であり、その仕事の関係でブラウンと知り合った経緯がある。慈善事業に力を入れているが、ロンドンの有名デパートのハロッズの社外取締役(Non-executive director)も務めている。それでも言えることは、ブラウンはお金にこだわっておらず、世界に貢献することにこだわっているようだ。

ブラウンは、その下院のマンデラ追悼スピーチでシェークスピアの言葉を引用した。「臆病者は本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇気のある者は一度しか死を経験しない(Cowards die many times before their deaths; The valiant never taste of death but once.)」。日本の猪瀬都知事は今回の事件で政治的な「死」を迎える状況のようだ。前者にあたるようである。