道州制への疑問(Is Devolution that Good?)

日本では多くの政党が道州制の導入をマニフェストに入れる考えのようだ。しかし、道州制は本当にそんなにいいモノだろうか?

英国では、ブレア労働党政権でスコットランドとウェールズの地方分権を行った。1997年に住民投票を行い、それぞれの議会が開かれたのは1999年からである。スコットランドは、もともと独立の機運が強く、スコットランド人としてのアイデンティティが強いため、この地方分権は、当然の成り行きと見られた。むしろこの地方分権は、独立の機運が強くなりすぎるのを防ぐための一種のガス抜きと考えられた。ウェールズでもウェールズ人としての独自性が強く、ウェールズ語が英語と並んで公用語となっている。この11月15日に行われる新制度の警察・犯罪コミッショナーの選挙でも、既に印刷された投票用紙が英語だけだったために、すべてが廃棄されることとなった。大急ぎで英語とウェールズ語両方の入った投票用紙が準備されている。ウェールズは、分権実施後次第にその住民の支持を得ていったが、住民投票では、賛成50.3%、反対49.7%で、かろうじて賛成多数で分権に進むことになった。

ブレア労働党政権では、これをさらに進めて、人口の84%が住むイングランドの分権を図った。当時のプレスコット副首相がこれを促進し、まずは手始めにイングランドの東北地区で住民投票を行った。ところが、投票率44.7%でその内77.9%が反対し、住民の意思がはっきりした。このため、プレスコット副首相は予定していた他の住民投票を中止した。このような改革を行うには、現代では、住民投票で住民の意思を量る必要があるだろう。政治家や国家公務員、または学者の思いつきだけでことを進めるのは疑問があるように思われる。本当に住民がそういうシステムを求めているのか見極める必要がある。

日本の場合、最も大きな問題だと思われるのは、道州制を導入すれば日本はよくなるという発想だ。本当にそうなのだろうか?スコットランドは、スコットランド独立を謳って設立されたスコットランド国民党(SNP)が議会の過半数を握り、政権を担当している。第一首相のアレックス・サモンドが率いる、左寄りのSNP政権は、優れた手腕を発揮しているといわれ、高い評判を得ている(現在、独立後のEU加盟をめぐりウソを言ったという問題が出ているが)。SNPは2007年選挙後、少数政権を担当し、2011年に過半数を握る政権となった。そして2014年秋にはスコットランドの英国からの独立をめぐる住民投票を実施することになった。

ところが、スコットランドは1999年分権議会発足後既に13年経つが、これまで分権によるはっきりした経済的メリットが見られていないのである。スコットランドの課税権限には制限があるが、スコットランドは、中央政府から有利な補助金を受け、住民一人当たりの財政支出は、2010-11年で英国平均より13%高い。大学授業料は無料で、福祉関係費もイングランドより11%も高い。そのため、財政的にはかなり優遇されていると言える。しかし、未だに1980年代の景気後退で受けた大きな打撃から抜け切れていない。エディンバラを中心にした銀行などの金融セクターが伸びていたが、信用危機で、地元大手の二つの銀行が中央政府から救済されることとなり、他の地域と同様その成長も止まった。

スコットランドの分権がどのような経済的便益をもたらしたかについては幾つもの研究がある。ほとんどないか、まだその効果が表れていない、というのがこれらの結論である。それらの一つである下記の論文では、一般的に地方分権には、経済的な便益があると政府も国際機関も考えがちだが、実際的な証拠が乏しいと指摘している。
http://eprints.lse.ac.uk/33560/1/sercdp0062.pdf

スコットランドでもウェールズでも住民投票の際に使われた議論は、地方分権すれば、経済的な配当があるということだった。しかし、これは実現されていない。むしろ、ウェールズでは、議会の設けられたカーディフがよくなっただけで、以前より悪くなったと言われる。

日本の場合は道州制だが、道州制にすれば経済的便益があり、うまくいくと考えがちではないだろうか?道州制にしたとしても、これはあくまでも一つのツールであって、そのツールをいかに使って地域を発展させていくかは全く別の問題である。英語の表現にYou can lead a horse to water, but you can’t make it drink というものがあるが、道州制にしたとしても、その制度に対する住民の支持が乏しく、しかも地域をどのようにして発展させていくかの具体的なアイデアとそれを実行していくブルドーザーのようなリーダーがいなければ、逆効果であろう。かなりの手腕があると評価されているスコットランド内閣でも分権の経済的便益を上げるのに手こずっているのである。ウェールズの例で見られるように、道州制の結果で予測されるのは、既に繁栄している地域はますます栄え、そうでない地域は、さらに悪化する可能性があるということである。

一方、こういう改革で心しておかねばならないのは、そのコストである。実施にかかる費用と時間、その手続き、さらには行政上の混乱など多くの問題があろう。まずはその具体的な計画を作るだけでも相当の時間がかかる。中央と地方との役割分担、権限移譲のレベルなど簡単には片付かない問題のように思われる。当然ながら、中央から地方へ権限が移ることになれば、国家公務員の必要数が減る、さらに幾つかの県レベルの数が減ることになればその地方公務員の数も減ることになろう。これらの人員を解雇することになれば、その費用はかなりのものとなる。新たな役所や議会を建設するということになれば、その費用もかなりのものとなろう。その上海底資源の取り扱いなど相当細かな計画が必要だ。

いずれにしても、もし、道州制を本当に実施したいと考えているのであれば、現在の日本で行政区画の問題なく実施できると思われる北海道や沖縄に道州制で予定される権限などを委譲し、試行的に実施してみることが考えられるだろう。そこから学べることが多いかもしれない。英国でできていないことが日本でできる可能性はある。しかし、道州制を一種の特効薬のように考えるのは恐らく誤りだろうと思われる。

政治家に与える家族の影響(Family History’s Effects on Politicians)

政治家には、自らの経験だけではなく、身近な親類家族の経験が大きな影響を与える場合がある。それは英国のトップ政治家にも当てはまる。

ジョージ・オズボーン財相(1971年5月23日生)は、2010年5月、キャメロン政権発足とともに39歳で財相に就任した。1886年以来最も若い財相である。1886年に財相となったのは、元英国首相ウィンストン・チャーチルの父のランドルフ・チャーチル(1849年2月13日‐1895年1月24日)で、1886年8月3日に37歳で財相となり、その年の12月22日まで務めた。ランドルフ・チャーチルは5か月足らずで財相を辞任したが、オズボーンは就任してからこれまで2年半ほどになる。

ランドルフ・チャーチルは、マールバラ公爵の3男で、貴族の生まれだったが、オズボーンは、1629年から続く准男爵の家系の嫡子である。准男爵位は、通常貴族として扱われている。オズボーンは非常に恵まれた家に生まれ、「パブリックスクール」のセント・ポールズ・スクールからオックスフォード大学に進んだ。

日本には、この「パブリックスクール」に匹敵する学校がないのでわかりにくいかもしれない。これは、インデペンデントスクールと呼ばれる公的な助成を受けていない学校の中でも特に伝統と格式のある学校を指す。ここでの「パブリック」とは、非常に裕福な家庭で行われていた私的な家庭教師による教育とは異なり、一般に開かれているということを意味したものである。パブリックスクールは、イングランド、ウェールズそして北アイルランドにある。なお、公的な助成を受けている一般の公立学校はステート・スクールと呼ばれる。

パブリックスクールには公的な助成がないため、授業料が非常に高い。セント・ポールズ・スクールの場合、年に3学期あるが、2012-13年度には、1学期ごとに6,558ポンド(日本円にして85万円ほど)で、3学期合計で、250万円余りとなる。もし、寄宿舎に入れば、1学期9,822ポンドで、年にして380万円程度となる。英国の平均年収は、2万5千ポンド程度(330万円程度)と言われ、通常これらの学校にはかなり裕福な家庭の子供しか縁がない。しかも入試は極めて難しい。裕福ではない家庭の子供のための奨学金制度もあるが、この適用を受けるのは、ごく少数である。これらの学校に行くメリットは、まず、非常にすぐれた教師から学ぶことができ、また、言葉遣い、アクセント(これは訛りのこと)などを矯正されるので、少し喋れば、どのような家庭の出身で、どのような学校を出たかが一目瞭然となることである。ただし、有名パブリックスクールの一つラグビー・スクールを出た保守党下院議員アンドリュー・ミッチェルの引き起こした「平民事件」でも明らかになったが、パブリックスクール内でも、成り上がり者の子弟を「平民」と呼ぶ者もいるようである。

さて、オズボーンは、保守党の調査部で働いた後、ジョン・メージャー保守党政権下でスペシャルアドバイザーとして働き、1997年総選挙で保守党が下野した後、党首となったウィリアム・ヘイグ(現外相)の下で、政治秘書を務めた。その後、2001年に保守党の非常に強い選挙区から下院議員に当選。そして、マイケル・ハワード党首に目をかけられ、2005年5月には2回目の当選を果たしたばかりで影の財相に任ぜられる。

公立学校を出て、オックスフォード大学に進んだウィリアム・ヘイグがオズボーンのことを評し「もし我々にオズボーンのような恩恵があれば、オズボーンの20倍のバカ野郎になっただろう。オズボーンは全くバカ野郎ではないが」と言ったといわれる。オズボーンは見かけはともかく、実態は傲慢でうぬぼれた人物ではなさそうだ。むしろタイムズ紙のコラムニスト、ドミニック・ローソンが言うように、「内気な人物」であるという方があたっていると思われる。オズボーンは、セント・ポールズ・スクール時代に、政治家を目指し、「首相になれなければ外相になりたい」と言ったそうだが、これには、少なからず母方の祖母の影響があるように思われる。

母方の祖母クラリス・ロックストン=ピーコック(1924年5月7日―2004年7月24日)は、ハンガリー生まれで、家族とともに英国へ渡ってきた。英国で中等教育を終え、英国の美術学校で学んだ。1956年にハンガリー動乱が起き、多くのハンガリー難民が英国に来たが、これらの人たちが祖母の家に集まってきたそうだ。オズボーンの下院での最初の演説で、この祖母の話を語っている。そしてオズボーンは言った。「私が家族の過去から学んだ教訓はこれらだ:政治的なシステムを、それを受け入れたくない人たちに押し付けてはいけない、統治者と被統治者の隔たりを生むようなことを許してはならない、そして人々の声を聞くことを止めるわけにはいかない」。

オズボーンの祖母は、有名な画家だった。タイムズ紙の死亡記事によると、終生、ハンガリー訛りの強い英語を話していたそうだが、オズボーンの母方の祖父が亡くなった後、保険のロイズやバルチック海運取引所の会長を務めたアントニー・グローバー卿と結婚した。そして2番目の夫も亡くなった後、3番目の夫は、防衛省の事務次官を務めたジェームス・ダンネット卿であった。ハンガリー政府が、1988年にハンガリー最大の文化イベントであるブタペストフェスティバルでショーを開くよう申し出て、祖母は第3番目の夫ら家族と一緒に行ったそうだ。この祖母は非常に知的で、少なからず政治的な影響力を発揮した熱情的な人物であったようだ。

自分の近い親族が影響を与えた例は、オズボーンだけにとどまらない。例えば、キャメロン首相は、10月初めの保守党の党大会で、自分の父イアンの話をした。身体障害を持つ父から楽観主義を学んだと言った。キャメロンの父は生まれつき脚の膝より下に障害があり、膝より上だけを見ると身長190センチ近い大男に見えたが、実際の身長はそれより30センチほど低かった。足の指やかかとにも障害があった。それでも決してそれを理由に引き下がろうとはせず、常に前向きに生きた人物である。

一方、自民党党首のクレッグ副首相の母とその両親はオランダ人で、第二次世界大戦中に、オランダの植民地であったインドネシアで日本軍の強制収容所に入れられた。クレッグの母親は、インドネシアのジャカルタで1936年に生まれた。1942年に日本軍が占領し、クレッグの母は両親や二人の姉妹とともに強制収容所の劣悪な環境で終戦の1945年まで過ごした。母の父親は別に収容された。そのため、日本軍に非常に悪い思い出がある。特に父親は、後にオランダの銀行ABNの頭取になった人物であるが、亡くなるまで日本への深い憎悪を持ち続けていたと言われる。

クレッグの母は、イングランドを訪れた時に父と知り合った。クレッグの父方の祖母は、ロシア帝国の男爵家の生まれで女男爵であった。そのため、父は、半分イングランド人で半分ロシア人である。父は銀行家で、日英関係を促進するために設けられたある基金の理事を務めていた。

母親がオランダ人、父親が半分ロシア人であるために、クレッグの血は4分の1イングランド人であるが、クレッグは英国で生まれた英国人である。英国ではこういう例は多い。ただし、クレッグの場合、オランダ語を流暢に話し、母方の実家があるためたびたびオランダを訪れている。欧州大陸の国々に親近感があり、英国人に特有の一種の「島国根性」がなく、英国を大陸との比較で見る能力がある。

労働党党首のエド・ミリバンドは、英国の賭け屋によれば、次の首相の筆頭候補である。ミリバンドの母親はポーランドで生まれたユダヤ人で、父親はベルギーで生まれたポーランド系のユダヤ人である。母は、ドイツ軍占領下のポーランドで、多くのポーランド人にかくまわれ、ホロコーストで殺されずにすんだ。ミリバンドの兄デービッドが、ブラウン労働党政権の外相として、2009年、ポーランド人に母を救ってくれたことを感謝した。父親も祖父と一緒にドイツ軍から逃れて1940年に英国に来た。ミリバンドの父方の祖母と叔母は、第二次世界大戦中、フランスの農家でかくまわれ、終戦後再会した。多くのユダヤ人がナチスドイツに迫害されたが、ミリバンドの家族もそのために翻弄された。

英国は、多国籍の人々が集まる場所である。そのため、政治家にも多くの血筋が混じっている。その血筋から出てきた過去の経験が、現代の政治に生きていると言える。