経験が乏しくてもトップ官僚が務まるか?

英国の官僚には、民間から転職してきた人がかなりいる。生え抜きだけだと考え方が画一化してくる恐れがあり、様々な経験がある人が同じ職場にいることには意味があるだろう。

ただし、比較的官僚経験の少ない人が省庁トップの事務次官(Permanent Secretary)になるのはどうか?

これまでにも、民間のコンサルタントだったイアン・ワトモアや地方自治体出身のボブ・カースレイクが事務次官となったなどの例がある。また、近年ではアントニア・ロメオがいる。

最近、比較的官僚経験の少ない、ある事務次官が二つの件で焦点となった。それは41歳のセーラ・マンディーである。マンディーは、オックスフォード大学でPPEを学んだ後、LSEで経済学の修士号を持つ。その後、エコノミストとして国家公務員となったが、コンサルタント会社のマッキンゼーに移り、15年間働いた。そして官僚となり、今は、サイエンス・イノベーション・テクノロジー省の事務次官である。

二つの件の一つ目は、英国郵便局(Post Office)での日本企業富士通の会計システム「ホライゾン」の欠陥に絡む損害賠償である。英国では、個人経営の小さな郵便局が多くある。会計システムの欠陥のため、多くの小さな郵便局で不正が行われていたとされて900人以上の人が無実の罪を問われた。その結果、刑期を務める、借金を背負う、または破産した人が多数出た。その人たちへの補償は計10億ポンド(1900億円)にも達するとされているが、その補償の支払いはかなり遅れている。

この件に関連して、政府が100%の株式を持つ郵便会社の会長が、ビジネス大臣に更迭された。その会長が、マンディーに次の総選挙が終わるまで、補償支払いを遅らせるよう言われたと主張した。マンディーは、そのようなことを言ったことはないとしたが、その会長は、その言い分を変えず、宣誓証言の下で、下院のビジネス委員会でも同じことを繰り返した。

さらに、現在のサイエンス相のミシェル・ドナリーが、ある学者のツイートを取り上げて非難し、サイエンス省関連の委員会のメンバーにふさわしくないと攻撃した事件がある。その学者は、ドナリー相手に名誉毀損で訴訟を起こした。その結果、ドナリーは謝罪し、賠償金を支払ったが、その費用15000ポンド(約285万円)は省から出された。省が出した理由は、法律アドバイスも受け、省の事務方トップがドナリーの言い分を認めていたためだという。

実際、官僚には、このような問題に巻き込まれることはあるだろう。しかし、二つ続けて起きたのは、不運だったというより、それ以上の問題があるように思われる。

高卒で事務次官にまで上り詰めたスー・グレイ

英国内閣府の第二事務次官スー・グレイが辞任した。野党第一党労働党の党首の首席補佐官になるためである。このニュースは、英国の政界、特に政権政党である保守党に大きなショックを与えた。同様の動きをする国家公務員はこれまでにもいたが、グレイほどの地位にある国家公務員が、このような動きをした前例はないようだ。そのグレイは、大学には行っておらず、高卒で国家公務員となり、そして事務次官にまで上り詰めた。

グレイは、ジョンソン元首相が首相を辞任することになった大きな原因であるパーティゲートの調査を命じられ、その報告書を書いた人物である。その報告書でグレイは、この問題は、「リーダーシップの欠如」と指摘した。パーティゲートの調査は、もともと英国の国家公務員全体のトップの内閣書記官長(Cabinet Secretary)が行うことになっていたが、調査を始めて、内閣書記官長のオフィスでも「パーティ」が行われていたことがわかり、内閣書記官長が辞退し、その代わりに、筋を通す評判のあるグレイがその任を任されたのである。当時、野党労働党を含め、グレイがその調査をすることにほとんどが歓迎した。なお、内閣書記官長は、後に罰金刑を受ける。

パーティゲートは、コロナの拡大を防ぐために、法律で人の交流を大幅に制限したロックダウン中に、一般の人たちは、親や家族の死に目に会うことも許されていないにもかかわらず、首相官邸などでは、法律に違反して、飲酒を伴う集まり、パーティが開かれていたというものである。

グレイは、次期総選挙後に政権に就くことが確実とみられる野党第一党の労働党のキア・スターマー党首から首席補佐官(Chief of Staff)に就くよう頼まれ、それを受けた。そして第二事務次官職を辞任した。なお、元国家公務員で、党首や首相の首席補佐官となった人としては、トニー・ブレア元首相の首席補佐官だったジョナサン・パウルが有名である。

労働党側は、かつて「政府を動かしている」とまで言われたグレイがスターマーを支えることを歓迎しているが、保守党側、特にジョンソン元首相に近い議員たちは、パーティゲートの調査報告書は、労働党の意向を受けた、ジョンソンを追い落とす策謀だったと攻撃する。しかし、グレイは、かつてメイ政権下で副首相格にあった、ダミエン・グリーンの調査をメイから命じられ、その結果、メイがグリーンを更迭した例にみられるように、筋を通す人物である。キャメロン保守党政権下、内閣府大臣だったフランシス・モードは、グレイには影はないとする。

筋を通すことがグレイの特質であるとはいえるが、それがトップのトップに就けない大きな原因だったように思われる。グレイは、かつて北アイルランド地方政府の財務省のトップとして働いた時に、北アイルランドの国家公務員のトップのポストに応募したことがある。しかし、失敗に終わった。後に公共放送BBCのインタビューに答えて、グレイは、難しい人物だと思われたのでしょうねと答えている。

かつて内閣書記官長を経験した、ガス・オードンネルは、政府の中枢で長年働いてきて、しかも倫理問題の責任者でもあったグレイは、もし回顧録を書けば、これまでにないものとなるだろうとするが、グレイはそのようなものは書かないだろうとする。この点でも、保守党側は、グレイの知識は脅威だと見ているようだ。

グレイは、家具のセールスマンだった父が亡くなり、大学に行くのをあきらめ、高校を卒業後、国家公務員となる。それから数々の省庁を経て、局長になり、最終的に事務次官職まで上り詰める。その間、キャリアブレーク(休職)して、北アイルランドで夫としばらくパブを経営していたことがあるが、うまくいかず、国家公務員に復帰したようだ。

労働党とのつながりは、2人の息子のうちの1人が、労働党のアイルランド協会の会長を務めており、それがきっかけになった可能性がある。

ただし、労働党もしくは労働党政権での年俸は、せいぜい15万ポンド(約2400万円)程度で、これまでの20万ポンド(約3200万円)を超えるレベルの給料より落ちる。それでも、筆者には、グレイは、自分がやりたかったが残した仕事があるのではないかと思われる。それが労働党政権下で可能になるかもしれないという気持ちがあるのではないだろうか。

グレイが、スターマー労働党党首の首席補佐官になるという話が出てから辞任したことについて保守党などから強い批判がある。この点については、自分の現在の仕事が嫌なら、トップレベル国家公務員や閣僚経験者などの政府外雇用を監視するビジネス任用諮問委員会 (ACOBA:Advisory Committee on Business Appointments) に報告してすぐに辞めたかもしれないが、自分の仕事に本当に責任を持っている人ならそう簡単には辞められないように思われる。現在の職で、やりかけている仕事や、やり残した仕事もあるだろうからである。実際、現在の保守党政権下で、労働党で働くかもしれないと言っただけで、現在の仕事を外されるだろう。そのことを考えると、同情できる余地があるように思われる

グレイは、基本的に3か月間は政府外の仕事につけないが、ACOBAの判断によっては、最長2年の制限がつけられるかもしれない。次期総選挙は、現在のところ1年半先と予測されている。グレイの制限期間の最終権限はスナク首相にある。

それでも高卒で入った人物を国の公務員のトップレベルにまで上り詰めさせることのできる英国の国家公務員制度には学ぶことができる点があると思われる。また、グレイは1957年もしくは1958年生まれとされる。すなわち、現在65歳程度である。英国では、国家公務員は、基本的に自分の辞めたい時まで働ける。能力がある人は、定年退職で辞めさせるのではなく、継続して働ける仕組みは非常に大切だと思われる。